脱炭素ならぬ、【脱・二項対立】(前編)「二項対立が世界をカルト化させる!?」

脱炭素ならぬ、【脱・二項対立】(前編)「二項対立が世界をカルト化させる!?」

 

ここ数年、「脱炭素」「SDGsといった言葉をよく耳にします。数十年前から、「地球温暖化」と言われるようになり、その原因は、二酸化炭素の増加や、メタンやフロンという「温室効果ガス」と呼ばれる気体によって引き起こされている、と言われています。

このままいけば、地球の環境は大きく変動してしまい、人類存亡の危機に向かってしまうため、温室効果ガスを出さないようにする動きが「脱炭素」だったり、それをさらに拡大して、地球環境を持続可能なものに変えていこうという目標が「SDGs」だったりするわけです。

と、ここまでは前振りです(笑)

今回取り上げたいテーマは、脱炭素でもSDGsでもなく、「脱二項対立」です。

道楽舎のコラムでは、何度となく「二項対立」「二極化」という言葉を使っています。特に、「二項対立の罠」という言い方をしています。というのも、「二項対立」というのは、【道楽】(道中を楽しむ)という考え方と、相反しているからです。

前編となる今回は、「二項対立が世界をカルト化させる!?」というテーマでお送りしてまいりますが、「ん?カルト化??」と思ったのではないですか??「カルト」と聞くと、昨今話題に上がっている某団体を思い浮かべる方もいるかと思います。お察しの通り、実は関連性があるのです!果たして、「二項対立」と「カルト」にはどういった関係があるのでしょうか

まずは、改めて「二項対立」というものがどういうものなのか、考えていきたいと思います。

 

二項対立の良い面

「二項対立」とは、「善・悪」「光・闇」「愛・憎」「勝・負」「敵・味方」「好・嫌」「幸・不幸」など、二つの相対する枠組みのことを言います。

何かと「二項対立」は悪いように申し上げておりますが、「二項対立」にだって良い所はあるんですよ?(笑)。良い所もあるのに、悪くいうだけでは申し訳ないので、ちゃんと「二項対立」の魅力についてもお伝えしなければフェアではありません(笑)

 

スポーツにみる「二項対立」

わかりやすい「二項対立」の魅力と言えば、競技・スポーツです。スポーツの世界は、勝ち負けがあり、競争相手がいます。特に、野球やサッカーなどの対戦競技は、わかりやすい構図です。選手は、勝つために努力をし、プロスポーツであれば、それを応援するファンやサポーターも多くいます。

ファンは、どちらか好きなチームを応援するものですが、例えば日本代表戦であれば、やはり日本を応援しますよね。また後にじっくり取り上げますが、W杯が始まれば、日本中が青に染まり、国を挙げて応援しているのではないでしょうか。若者は街へ繰り出し、初めて会う人とでも、サポーターとして一緒に応援し、勝てば大盛り上がりです。(大きい声では言えませんが、賭博なども、実際には巨額が動いているのではないかと言われています)

サッカーで言えば、W杯という世界的な大会があるから、それに出場することがサッカー選手の目標となります。W杯という目標があることで、サッカーのレベルも上がりますし、W杯に向けて世界中が大いに盛り上がります。W杯がなければ、こんなにも盛り上がることもありません。

今でこそ、日本もW杯出場が当たり前のようになっていますが、1998年のフランスW杯に初出場するまでは、苦難の道のりでした。1994年に開催されたアメリカW杯では、最終予選の最後の試合、終了直前にゴールを決められ、初出場を逃した「ドーハの悲劇」というものがありました。

その悲劇が、日本が初出場を決めた予選最終試合、野人・岡野が中田ヒデのスルーパスを受け、劇的なゴールデンゴールを決めた「ジョホールバルの歓喜」になったわけです。

この「悲劇と歓喜」という日本のサッカー史に残る出来事は、「勝利と敗北」という「二項対立のおかげ」と言えるかもしれません。

今年の11月には、いよいよカタールW杯が始まります。日本戦は、日本中が一丸となって応援することと思いますが、楽しみがなかったり何かに熱中することがない人にとっては、いい対象になると思います。まぁ、この盛り上がりに乗じて…って考えてる輩(サッカーとは関係ないことを目的にしている輩)には要注意ですけど…(^^;

「二項対立」というものがなければ、W杯もなかったかもしれません。そこはとてもありがたいんですが…、そうも単純には言えません。そもそも、なぜ「W杯」があるのか…?
…っと、ここから先は、中編以降で取り上げようと思います。

 

「二項対立」と「ゆとり教育」の意外な関係

「二項対立」であることや「敵味方に別れる」ことで、多くの人を巻き込み、熱狂を生み出します。なぜなら、「敵」をわかりやすくすることで視野が絞られ、「敵」しか見えないようにする為です。

そんな「二項対立」に対して、一種の対策になったのが、「ゆとり教育」です。

戦後ずっと続けられてきた受験戦争の歪みである詰め込み型の教育が批判されたことをうけて、文科省主導で2002年からゆとり教育が始まりました。ゆとり世代の生き様を描いた、宮藤官九郎さん脚本の『ゆとりですがなにか』なんてドラマもありました。

「ゆとり教育」では、運動会では順位をつけないようにしたり、徒競走でゴールする時は皆手を繋いでゴールしたりしたこともあったそうです。
ちょうどその頃に『世界に一つだけの花』という曲も流行り、No.1にならなくてもいい。元々特別なオンリーワン」という歌詞は、多くの人の心を打ったのではないでしょうか。確かに名曲で素晴らしい歌詞ではありますが、前述の通り、No.1を決めることや競争があるということは、良く言えば多くの人を巻き込んで盛り上がり楽しむことができるイベント、エンターテインメントの一面があります。経済が回ることはもちろん、プレイヤーも注目されることで、日頃の成果を発揮し、注目してもらうこともできる。争うことで切磋琢磨することもできるし、より素晴らしいパフォーマンスを発揮することもできるのでしょう。

それが、「ゆとり」であったり、誰もがオンリーワンで誰とも競争する必要がなかったら、熱狂を生み出すほどの魅力は生まれないかもしれません。好きなことをやっている本人は、熱中できることはあるかもしれませんが、誰かを熱狂させるようなことは、「二項対立」でなければできないことなのかもしれませんね

敵味方に分かれることで、そこには何もなかったものが生み出される。親だけが喜ぶ子供の発表会ではなく、知らない人まで巻き込むようなことにも成り得るのです。

そういう意味で、「二項対立」の良さというのは、自分以外の誰かを巻き込み、熱中させる。さらには、お金も時間も労力も惜しまないほど、熱狂させるということです。

 

熱狂(カルト化)した結果…

きっと、この熱に当てられたら、誰もが早々簡単に抜け出すことはできないでしょう。プレイヤーであれば、多くのファンから歓声を浴び、勝利の余韻に酔いしれる。スポーツや芸能の世界ではよくあることだそうですが、過去の栄光が忘れられない「スポットライト症候群」というものがあるそうです。「二項対立」の中心で活躍すれば、それだけ注目を浴びたり、名声や大金を手にすることができるわけです。さらには、この「二項対立」にあやかる人や企業も、莫大な利益を得ることができます。場合によっては、活躍しているプレイヤーよりも…。

しかし、活躍するプレイヤーや芸能人なども、昨今ではちょっとした不祥事で袋叩きに遭うことがあります。場合によっては、それまで築いた地位を失い、デジタルタトゥーによって過ちは消えることなく、現場復帰はおろか、社会復帰さえ厳しくなることもあります。これもまた大きな声では言えませんが、目立つゴシップ報道の裏では、民衆に知られてくないことが起こっているそうです。つまり、意図的にカモフラージュのネタにされている、かもしれないということです…。

とまぁ、「二項対立」によって、活躍の場を得ることができたり、注目を浴びて有名になったり、ファンや無関係な人までも巻き込んで熱中させたり、大金を手にすることができたりするということがわかりました。

ほんと、良いことづくめですね~!!

 

…と、言うとでも思いましたか?(笑)。今まで何度「二項対立の罠」と言ってきたのでしょうか。

ここからは、本題である「二項対立」の危険性や、罠の先にある「沼」についても言及してまいります。

 

二項対立の沼

スポーツにおける沼

MAXは学生時代サッカーをやっていましたが、サッカーは世界で一番競技人口の多いスポーツです。世界のサッカー人口は、約2.6億人もいるそうです。また、普段リーグは見ていなくても、一度はW杯は見たことはあるのではないでしょうか?W杯の視聴者は、オリンピックよりも多いんだそうです。オリンピックは30億人、W杯は35億人なんだとか!

そんなW杯が始まると、どこからともなく「にわかファン」が沸いてきますよね(笑)。まあそれも、W杯がサッカー選手の目標でもあり、国を挙げて世界一を決めるという名誉ある大会に、その国の代表として出場する訳なので、それだけ人々を熱狂させる魅力、引力のようなものがあるのです。

W杯の日本戦では、スタジアムに応援に行く人もいれば、パブリックビューイングで会場に足を運んだり、ユニフォームを来て街に繰り出し、バーなどで観戦する人もいます。日本代表が勝てば、渋谷のスクランブル交差点で多くの人が喜びを爆発させて盛り上がり、DJポリスなども話題にもなりました。

(女性のDJポリスもいるそうですw)

昔は、フーリガンと呼ばれる超過激なファンが多くいました。

これはモーガン・フリーマンでした(笑)

フーリガンとは、試合に負けると暴動を起こすような熱狂ファンのことで、過去には何度も死人が出ているほどです。今でもブラジルやイギリスなどのサッカー中心の国では、存在しているようです。

一部の熱狂的なファン(サポーター)ではありますが、サポーターというのは、チームの為に声を枯らして応援し、応援しに行く為にレプリカユニフォームやグッズを買い、遠征に行くなど大金を落とします。相手チームにはブーイングで妨害をし、味方チームには健闘を讃え、良いプレーをすれば拍手喝采、ゴールが決まれば大歓声を上げます。時には、味方チームが不甲斐ないプレーをすれば、叱咤することもあります。

ちなみに、GIANT KILLINGという漫画があり、この作品は、サッカーに関わる、チーム・フロント・サポーターという全体像を描いている名作で、私MAXもずっと読み続けています。この作品を見ると、サポーターがどのように活動し、チームにとってどんな存在かがよくわかると思います。機会があれば、チェックしてみてください。

日本代表がW杯初出場をかけていた予選では、あのキングカズが卵をぶつけられたことがありました。また、W杯に初出場したものの、不発に終わったエース・城がファンから水をかけたりするようなこともありました。他にも、選手が乗るバスを取り囲んだこともありましたが、サポーターからすれば、それだけ期待をかけて応援していたからこそ、その反動として起こした暴動なのでしょう。

プロ野球で言えば、阪神ファンの野次が有名ですが、ホームで迎えた相手チームに対しては、ボロクソ言います(笑)。時には、味方チームに対しても調子が悪ければボロカス言いますが、阪神ファンは、地域に根付いているということでもあり、深い関わりがあるということでもあるでしょう。

野次と言えば、このネタを忘れてはいけません。キングオブコントで優勝した、ジャルジャルの「野次ワクチン」というネタです。

関西弁ということもあり、阪神ファンのような野次のようにも聞こえますが(笑)、こんな風に野次を飛ばされたら、矢田心もたまったもんじゃないですよね(笑)

ただ、この動画には、今回のコラムにおいて重要なポイントが隠されています。が!それはまた後編でお伝えします(笑)

ファンは勝敗に対して、歓喜することもあれば、時には暴徒になるようなこともあります。しかし、実際に試合をしている選手を見ると、多くはファンのような反応はせず、意外と冷静だったり、淡々と事態を受け止めています。

ファンと選手の違いは何でしょうか?

それは、「当事者であるか否か」ということです。

綾野剛さん主演ドラマ『オールドルーキー』で、こんなシーンがありました。


「プロ選手は、普通の人が努力してもできないようなことができる。だからこそ夢を託し、全てのアスリートをリスペクトするんだ」

面白いもので、選手ではなくファンの方が、カルト化しやすいようになっているのです。それは、このセリフにあるように、プロ選手(当事者)のような死物狂いの努力をせず、「憧れや夢を抱き、託すだけ」だからです。当事者ではないから、選手の苦労や努力を知らず、結果でしか判断できない。勝手に理想を押し付け、勝手に期待し、思ったような結果ではなければ、心無いことを言ってしまったり、暴動を起こすこともある。お金や時間を割いて応援しに行くならなおさらです。

ただ、それだけ熱狂的なファンが応援してくれるなら、それだけ力にもなるでしょう。しかし、望んだ結果を出せないなら、その分強いプレッシャーにもなるでしょう。もちろん、プロ選手にとっては、そのプレッシャーも力に変えられるかもしれませんが、そういったプレッシャーが強すぎることで、潰れていく選手もいます。薬物に手を染めてしまった清原氏も、その一人なのかもしれません。

スポーツや芸能人やアイドルなどにハマる、一部の熱狂的ファンの存在を否定するつもりはありませんが、「二項対立の罠」にハマり、その先にある「二項対立の沼」にハマってしまうと、それが人生のすべてであるような狂信(カルト化)を生んでしまう危険性があります。沼の深みにハマってカルト化した熱狂的ファンとは、言い換えれば「信者(盲信者)」と言えるかもしれません。(ここについても、後ほど言及してまいります)

自分の好きなサッカーチームだけを応援しているファンではなく、純粋にサッカーが好きな人にとっては、どちらが勝ったかよりも、どれだけすごいプレーが見れたかの方が大事だったりします。私MAXも、特定のチームのファンではないので、スーパープレイをする選手には、誰であっても称賛を惜しみません。逆に、スーパープレーが見られないのなら、どちらが勝とうが負けようが興味はありません。

「二項対立(勝つか負けるか)」にハマって、勝つことだけが目的になってしまったら、スーパープレーは減り、面白みのない試合が増えてしまうでしょう。例えばW杯予選なんかは、勝ち負けのヒリヒリ感はあるものの、スーパープレーよりも、ミスのない堅実的なプレーが必要です。もちろん、スーパープレーが無いわけではないですが、自信を持っていたり、点差があって余裕があれば、そういったプレーも増えることでしょう。

個人的にも好きなロナウジーニョは、その全盛期、笑顔で遊び心溢れる、想像を超えたプレーでファンを魅了してくれました。プロ選手である以上、勝たなければ続けられませんが、そのようなファンタジスタがいると、チームはもちろん、サッカー自体が盛り上がります。

 

敵味方に分断する「二項対立」

営業の世界では、こんな掟があります。

「営業先では、野球と政治の話はするな」

MAXも、営業の仕事をしたことがありますが、上司からこう教わりました。なぜなら、野球や政治は、敵味方に分かれやすいからです。つまりは、「二項対立になりやすい」ということです。共通のチームのファンだったり、支持政党が同じであればまだいいのですが、敵対チームだった場合、敵対することで、契約が取れなくなったり、場合によっては取引がなくなることもあるわけです。競争相手であれば、敵対してもいいかもしれませんが、取引相手と敵対しては、仕事に支障が出兼ねません。だから、「二項対立」を意図的に避けるために、営業において、野球と政治の話はご法度なのです。

「二項対立」というと難しく聞こえるかもしれませんが、簡単に言えば、「なるべく敵を作らない」「無益な争いをしない」ということが、今後のビジネスの世界では重要になってくるということです。従来のマーケティングの世界でよく使われていた手法では、あえてこの「共通の仮想敵」を作り出して、相手と戦うことで仲間意識を共有し、組織の結束を高めるという方法(戦争などは、まさにこの手法です)もありましたが、ここ数年で随分流れが変わってきています。これは社会全体が「男性原理(男性性)」から「女性原理(女性性)」の時代に移行していることを意味します。

 

ミスチルが歌っていた「二項対立」

ミスチルのFIGHT CLUBという曲に、こんなフレーズがあります。

「仮想敵見つけ そいつと戦ってた
 誰も相手なんかしてないのに」

また、『ランニングハイ』という曲には、こんなフレーズがあります。

「時代とか 社会とか
 無理にでも敵に仕立てないと
 味方を探せない 愉快に暮らせないよ」

敵がいなければ戦えない。無理にでも敵を作らないと味方を探せない。この2曲から感じるのは、「二項対立」から抜け出せない悲哀です。特に『ランニングハイ』「愉快に暮らせないよ」というのは、「二項対立」に病んだ現代人の闇のように感じるのです。

こういった歌詞が出てくるのが、さすが桜井さんだなぁと感じますが、きっと、今の世界の在りようや違和感を敏感に感じ取っているんだと思います。何を隠そう私MAXは、ミスチルファン歴28年なので、ミスチルを語らせたら長くなりますが(笑)、ミスチル自身も「二項対立」に揺さぶられて苦しんできたんだろうと思います。CDバブルの90年代後半、ブレイクしてからミリオンセラー連発で、一気に日本のトップになりました。新曲を出すたびに売れて、苦労していないと思われるかもしれませんが、歌いたい曲と求められる曲は違い、苦しんでいるアーティストも少なくないそうです。実は、桜井さんにも「闇期」があり、その頃の楽曲は、社会を風刺した曲が多く、社会派バンドと呼ばれることもありました。その当時の桜井さんは、髪を伸ばし、目から生気を感じられず、奥に闇を宿したような感じさえしました…。また、2002年には小脳梗塞で倒れてしまい、ミスチルは一時活動休止したこともありました。

おそらくですが、そういった闇期や病気を経たことで、「二項対立」から離れたのではないかと思うのです。現在は「二項対立」に囚われて生きるのではなく、自分の本音に従って、生きたいように生きているのではないでしょうか。本人も今はサッカーが大好きで、音楽以上にサッカーをやっているそうですしね(笑)。

これ以上は中編以降のテーマになってしまうので、この先は申し上げませんが、桜井さんは「二項対立」を味わったことで、変化していったと思われるし、だからこそ紡がれる歌詞があるのでしょうね。

ミスチルの話で若干脱線しましたが(^^;、「二項対立」にハメられることで、敵味方に分かれて争うように仕組まれる。そして、敵対するようになると、周りを巻き込んで熱狂させ、巻き込まれた人々をカルト化させていってしまう、ということがわかってきたのではないかと思います。(あれ?…そう言えば、ここ1~2年の間、これと似たような事が私達の周辺でも起きてませんでしょうか…)

 

カルトと言えば…

「カルト」という言葉が出てしまったら、あの話題に触れないわけにはいきません(笑)

7月8日、安倍元首相襲撃事件が起こりました。近代においては、まさかと思われる事件でしたが、その裏には、某〇〇教会という宗教が関わっており、首謀者の母親がその宗教に巨額の献金をして、家庭を崩壊させられ、積年の恨みがあった。その矛先として教団と関わりのある安倍元首相に兇弾が向いた、という風に報道されています。

その後、なぜかその話題が連日メディアで報道されるようになり、教団と政治家との関わりが明るみになり、誰が関わっていて大臣を辞任するだとか、反社会的カルト教団に加担したと、政治家を叩く動きがあります。

【道楽舎】としては、言葉は悪いですが、そんなことはどうでもよくて、一連の流れを客観的に見たときに、「二項対立にハマってんな~」と感じているわけです。別に、声を荒らげて某教会を糾弾するつもりもないし、関係を持った政治家を叩こうとも思いません。なぜなら、宗教や政治なんて、「そりゃそんなもんでしょ~」とはじめから思っているからです。たまたま某教会が槍玉に上がっていますが、こんなことを言うと真剣に信じている人には大変申し訳ないですが、新興宗教の実態なんて、どこも同じで似たり寄ったりです。信者を都合よく「洗脳」したり「マインドコントロール」する方法も、その仕組みを知っている者からすれば、程度の差こそあれ、殆ど同じような手法が使用されています。よく考えれば、全国の一等地に彼らが所有してる豪華絢爛な施設の数々や、教祖が住んでいる御殿のような立派な建物を見れば、それだけ効率的で、しかも合法的な集金装置であると気づくでしょう。別に宗教に限らず、いつの時代も、惜しみなく搾取され、最終的に厳しい状況に追い込まれるのは、悲しいかな末端にいる「純粋な信者たち」なのです。

政治家だからって、清廉潔白な人は一人としているわけがないし、というか清廉潔白な人はそもそも政治家にはなれないし(笑)、上記のような新興宗教(特にカルト宗教)にまともな所があるとも思っていないからです…(^^;

そして、奇しくも昨日(9/27)には、安倍元首相の国葬が執り行われましたが、国民を二分する賛否両論があり、当日には「勝手に税金使うな!」「強制弔辞反対!」などと、反対デモもありました。ニュースでしか観ていませんが、「うわぁ、二項対立にハメられてんなぁ〜」と思ったものです。どこかの誰かが【意図的】に「二項対立」にハメようとしているとも感じてしまいます(^^; 国葬に関しても、賛成だ反対だと明言するつもりはありません。くだらない「二項対立」に巻き込まれたくないですし、巻き込むつもりもないので…(^^;)。もちろん、この件に関しては様々な問題はあると思いますし、我々が何の意見も見解も持っていないわけではありませんが、感情的に煽られて過剰に反応してしまうのも、誰かや何かの「思う壺」だなと思います。

先程、サッカーを例にもしましたが、ファンと当事者の間には大きな溝があります。当事者ではない「二項対立」に巻き込まれた人は、大した考えもなく「誰かに吹き込まれた正義」によって、やれ政治家はけしからん、やれ宗教なんてとんでもないと言い、益々議論は加熱していきます。その熱はやがて熱狂的(カルト)となり、お互いに己の正義を振りかざして攻撃的になっていって、場合によっては暴力革命にも繋がっていきます。それが小さな所ではネットリンチであったり、SNSを隠れ蓑にした誹謗中傷だったり、それが高じれば極論、国どうしの戦争へと発展していくのでしょう。

逆の立場で言えば、政治家は投票してくれる支持者を手放すわけにはいかないので、信用を失わないように嘘を言ってまで取り繕います。宗教にすれば、搾取する信者がいなければ成り立たないので、本当の実態や疑わしいものは必死に隠蔽しなければなりません。これは好感度が売りの芸能人にも同じことが言えます。ありのままの自分ではなく、人々に望まれる自分を演じなければならないことは、それはそれで大変です…(^^;

 

行きすぎた熱狂が起こすもの

カルトの権化『JOKER』

「カルト」という言葉から連想される一つに、『JOKER』という映画が思い浮かびます。

「JOKER」は、『バットマン』というダークヒーローの敵が主役となった映画です。「JOKER」がいかにして「JOKER」になっていったのかが描かれています。

「JOKER」ことアーサーは、コメディアンを目指し、ピエロのバイトをして、母の介護をしながら裕福ではない生活をしていました。アーサー自身も、緊張すると笑ってしまうという精神疾患があり、ただでさえ生きづらい世の中で、うまく行っていないどころか、社会の底辺のような存在だと言えるかもしれません。

アーサーはある日、ピエロのアルバイトをクビになってしまい、ピエロの格好で電車に乗っていた時に、絡んできたサラリーマン3人を勢い余って撃ち殺してしまいました。

治安が悪く貧しい人が多かった街では、自分たちの不満の捌け口としてタイミングよく登場した「暗殺ピエロ」をヒーローのように仕立て上げ、民衆から支持を受けたアーサーも次第に気分が高揚していきました。彼女もできて、コメディアンとしても舞台に立つようにもなりました。しかし、程なくアーサーが抱いていた望みや希望が絶たれてしまい、絶望が彼を襲います。介護が必要な母親を殺し、お見舞いに来た自分をバカにしていた元同僚をも殺してしまいます。

捜査が進み、アーサーは精神的にも追い込まれていきますが、夢だった、憧れのコメディアンの番組に出演し、生放送でコメディアンを撃ち殺します。それがきっかけで、社会に不満を持つ多くの低所得者層が熱狂し、街で暴動を起こしはじめます。彼らは警察に追われたアーサーを助けだし、民衆の熱狂を生み出したピエロは、「JOKER」になったのです。

「JOKER」を生み出したのは、「貧富の格差」「幸不幸」「勝ち組負け組」などが極端に二極化された社会になったことによって、溜められていた抑圧を抱えていた民衆と、「二項対立」に歪められたアーサー自身です。多くの人が心の奥に抱えていた狂気が、アーサーの発砲がきっかけとなって、熱狂の渦となった。その中心にいたのが「JOKER」であり、アーサーを救世主のように中心に据えたのが、カルト化した民衆だったのです。

もし、生きづらいと感じている人が少なければ、また、アーサー自身も生きやすい世の中であれば、人が殺されることも、暴動が起こることも、「JOKER」が生まれることもなかったでしょう。そうなったのも、「二項対立」の沼にハマり、社会が「二極化」してしまったことで民衆が抑制しきれなくなってしまい、張り詰めた社会は、アーサーが放った発砲というきっかけで、いとも簡単に暴発し弾けてしまいました。一見、単なるルサンチマンのような行動に見えなくもないですが、その奥にはもっと根深い心理があるように思えます。

『JOKER』という作品は、とても衝撃的な内容で話題にもなりました。昨年のハロウィンには、日本でも「JOKER」の格好をして刃物を持って電車に乗るという事件もありましたが…、それは決して奨励できることではありません。ただ、いかにして熱狂が生まれカルト化してしまうのか「二項対立」の行き着く先がどういうものなのか、参考になる作品ではないかと思うので、観たことない方はもちろん、観たことがある方も、今回のコラムテーマを元に観てみると、新たな発見があるのではないでしょうか。

 

テロを起こしたカルト宗教

27年前には、オウム真理教という新興宗教が、地下鉄サリン事件などテロを起こし、当時大問題となりました。教祖の麻原彰晃は死刑となり、教団も解散したものの、今でも名前や教義を変えて存在し続けています。

なぜあのような凄惨な事件を起こしてしまったのか。もちろん、教祖自身の異常な性格や思想やコンプレックスが大元にあり、実行した幹部や信者には、「洗脳」や「マインドコンロール」があったと言えば、確かにそうではあるでしょう。ただ、そもそもの仕組みとして「二項対立の罠」があったのです。宗教には、明確に「善と悪」「神と悪魔」「正統と異端」という教義上の「二項対立」が存在するので、その沼にハマりカルト化(盲信)してしまえば、教祖や教団の言うことを疑いなくなんでも聞いてしまう敬虔な信者(=テロリスト)の出来上がりです。その過程を「洗脳」や「マインドコントロール」と呼ぶのかもしれません。

その状態になってしまえば、「神」である教祖が、「テロを起こすことは善だ」と言えば、熱狂的な信者は疑いなしに行動してしまうでしょう。某世界的宗教にも、「聖戦」という教義があるくらいですしね・・・。都合の良い理由があれば、テロや戦争を起こせてしまうのも宗教です。
「テロ」とまでいかなくても、「信仰」とは時に、奇跡とも思えるようなことを起こす力があります。その力が良い方に働けば、人生が立ち直るきっかけになったり、病気が治ったりすることもあります。今回のテーマではないので、深くは言及しませんが、実は「信仰」の力が凄いというよりも、単に人間の誰もが持つ「思い込み(情報空間の操作)」によるだけのことだったりするのです。量子力学的見解では、「思い込み的観察」によってその人の世界は作られている、とも言われています。カルトの唱える「信仰」とは、誰かの都合の良いように、意図的に「思い込み」を強めるものと言えるかもしれません。(決して信仰そのものを否定するものではありません。思い込みや情報空間の特質を熟知し、人の善意を利用して都合よく人を支配する輩がいることを伝えたいだけです)

思い込みが強くなった信者の行動は、客観的に側から見たら、それがいかにおかしいことか簡単にわかりますが、盲信者(カルト化)になった状態では、視野が極端に狭くなり、信じていること以外見れなくなってしまうのです。後々、マインドコントロールが解けて目を覚ますことがあれば、いかにその時の自分がおかしかったかがわかることでしょう。(ちなみに、様々な教団の元幹部の方や某団体の教祖の息子がYoutubeに出ているので、気になる方は調べてみてください)

熱中することや信じること自体は、決して悪いことではないと思います。ただ、熱中しすぎたり、他人に言われたことをしっかり考えることもなく単に信じ込んでしまうのは、「二項対立の罠」に引っかかり、沼にハマってしまう危険性があります。悲しいですがそのような「世の中」なのです。

例えば、サッカーW杯中、大盛り上がりするにわかファンを、全く興味がない方はどう見えるでしょうか?また、W杯中は熱狂している状態なので気にならないかもしれませんが、いざW杯が終わり、熱が冷めてしまったら、自分のいき過ぎた行動に、恥ずかしくなる人もいるかもしれませんね。

「二項対立」が熱狂を生み出すと同時に、熱狂してしまう裏には「二項対立」がある、ということを知ることが、「二項対立の沼」にハマらないポイントと言えるかもしれません。

 

前編のまとめ

前編では、「二項対立」というものがどういうものかについて言及してきました。「二項対立」そのものは、多くの人を巻き込むもの。そして、中心にいる人(プレイヤー)にとっては、活躍の場を与えられたり、名声や大金を掴む機会(チャンス)にもなります。周りに集まる人たち(ファンやサポーター)は、その活躍に魅了され、声援を送り、時間やお金も落としてくれます。そして、敵味方に分かれ、お互いに小競り合いが起きることもあります。その熱がさらに強くなれば、熱狂的(カルト化)になって、攻撃的、暴力的にもなってしまう、ということを述べてきました。「二項対立」には、そういった「罠」や「沼」があるということがわかって頂けたのではないかと思います。

それにしても、そもそも「二項対立の罠」とはどういうことでしょうか。「罠」とは、自然発生的にできるものではありません。つまりは、「誰か」が、何らかの「思惑」や「意図」を持って仕掛けた、ということです。「二項対立」の本当の厄介なところというのは、実はこの「思惑」にあると考えています。

次回の中編では、もっと「二項対立」に踏み込んで、「二項対立」の恐ろしさや、それを意図的に仕掛ける側の「思惑」など、禁断の領域に踏み込んでいくことになります。今回のコラムも、とても不都合な内容ではありますが、今回以上に踏み込んだ内容の中編、さらには「脱二項対立」という今回のメインテーマまで、はたして無事お届けすることができるでしょうか…(笑)

 
 
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