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【道楽】は人間の本質(前編)「忘れ去られた【道を楽しむ】ということ」
【道楽】という言葉は、【道楽舎】の名前にもなっており、幾度となく「道中を楽しむ=道楽」とお伝えしています。ですが、何も私たちの専売特許というわけではありません。
というよりもむしろ、「実は【道楽】とは、人間の本質だった!」というのが、今回のお話です(笑)
ただ、多くの人が【道楽】という人間の本質を忘れているのではないか?と思うのです。
今回はそんな、人間の持つ「【道楽】という本質」について、前後編に渡ってお送り致します。
仕組まれた通りに生きていた
なぜ、【道楽(道中を楽しむ)】という人間の本質を忘れている…と感じたのか。
それは、自分自身がそうだったからです。
学生時代は、テストで良い点を取る為に、成績を上げる為にと頑張って勉強しました。順位が上がれば、先生や親から褒められたりして嬉しかったものです。そして、中学の時は高校受験を、高校の時は大学受験を、大学の時は就活を…そうやって順当に進んでいって、無事に絵に書いたような労働者になりました(笑)
小学生からしっかりと労働者として社会の歯車となるように教育されて、10代の大半をそれが良いものだと教え込まれて(洗脳されて)生きてきました。そういう思考で進んでいたから、社会人一年目にして会社を辞めた時に、それが大きな挫折となって、「自分自身、ダメ人間なんだ」と、まるで人間失格の烙印をおされたような気持ちになり、その時期はとても苦しみました。
今となっては、それも「せいをおかげに」できたことで無駄ではなかったと思っているし、その時の自分がいなければ今の自分はいないので、「よくぞ挫折した!」と、自分を褒めてあげたいくらいですけどね(笑)
「点」で「面」は測れない
【道楽舎】では、「人生とは道である」と考えていますが、点だけでは線を測れないように、道の途中で、道全体がどんなものかを判断することはできません。人生も、一時の失敗や汚点があったとしても、それで人生全てが汚れる訳ではないはずです。ましてや、人生の各所には、さらに「抽象度が上がる」という次元を越えるような体験もあるのです。これは「線」が「面」になった視点であり、もはや、始めの「点」の視点とはまるで別世界の光景なのです。
私の過去を取り上げましたが、会社組織は自分にとっては生きやすいとは言えない環境で、少なくとも私にとっては望む居場所ではありませんでした。もちろん、どういう所であれ、今いる場所が自分には合った居場所だと思っている方もいると思います。だから、仮に良かれと社会そのものを変えてしまっても、居心地の良い人にとっては、居場所を奪われることになります。革命を起こしたところで、立場を変えて同じことが起こるでしょう。世紀の発見や発明などが闇に葬られたり、誰もが望むフリーエネルギーなどが実用されていないのも、現行の利権によるところが大きいのでしょう・・・
だから我々【道楽舎】は、社会を変えたいのではなく、「自分らしく在ること」にフォーカスしているのです。なぜなら、我々は革命家ではなく【道楽家】であり、【道中を楽しむ】に生きることが、人生の本質だと実感しているからです。
本質を見え難くしている社会
「働き方三部作」というテーマのコラムを配信しましたが、この中でもお伝えしている「労働社会の罠」というものがあります。
長い年月をかけてできあがった、労働することを強要される社会。労働者(=社会や政府の歯車として従順に働く奴隷)を育成する学校教育。こういった仕組みによって、人は【道楽】という本質を見失うように仕向けられたのです。
【道楽】は、単純な「過程主義」だと言うつもりはありませんが、少なくとも「結果だけを求める主義」ではありません。しかし、今の社会は基本、「結果重視」の傾向が強いです。
会社においては、結果が出なければ意味がありません。結果(成果)を出さなければ、お給料がもらえません。
学校においては、「あらかじめ誰かが決めた『正解』を素早く導き出すという結果」を出し、試験で点数が取れなければ成績に結びつかず意味がありません。進級や卒業ができません。
つまりは、「結果を求められる社会」だということです。
結果を求められる社会において、「道中を楽しむ」ことに、何の意味がありましょうか?型にはめられ、決められたことをやらなければならず、上に忖度し、同調圧力に屈する…。おっと、ちょっと言い過ぎましたが(笑)、今の社会においては、【道楽】と発信しても、この社会で成功している人にとっては、負け犬の遠吠えのように聞こえるかもしれません。
そりゃそうです。せっかくこの社会で上手くいっているのに、わざわざ変えることも、変わる必要もないのですから。とは言え、今の社会に違和感や不満を持っている方は多いでしょうし、どうしていいかわからない方や、既に諦めている方もいるのではないでしょうか…。
『進撃の巨人』的に言うのであれば、世界は残酷で、脅威や恐怖によって、目を眩まされているのでしょう。でも、何か問題があるからこそ、解決しようとしたり、答えを求めるものです。そんな時、例えば宗教であれば、キレイ事や仮初の理想論や来世への希望を提示して、それを信じることで「家畜の安寧、虚偽の繁栄」を手に入れられるかもしれません。ただ、本当は「答え」とは、自分が決めるものであり、もっと言えば、自分の中にしか自分に合った答えはないということです。
答えは自分が決めるもの
社会常識や教育や宗教や似非スピリチュアルに限らず、そもそも自分の外にある「答え」や「神」に合わせようとするから、おかしくなるのです。まさに、労働社会の罠の一つには、あらかじめ定められた答えがあり、それが価値基準になっていることが挙げられます。学校教育は最たる例で、幼少期から定められた答えを出すことを徹底的に叩き込まれ、答えに合わなければ「間違い」として×(バツ)を付けられます。ある意味、なにも悪いことをしてるわけでも、望んでもいないのに、間違えると一方的に否定(バツを付けられる)されてしまうのです。
かのエジソンは、小学生の時に「1+1=1」と答えたことがあったそうです。
「1+1」の答えは、当然「2」ですよね。先生も当然のように、間違いを正そうとしました。そこでエジソンは、「一つの粘土にもうひとつくっつけたら、粘土は二つにならないよ」と答えたそうです。先生は、屁理屈だと思ったことでしょう。一瞬、返答に困ったそうですが、「1+1=2」だと決められた公式を押し付け、無理やり納得させたそうです。
確かに、量は二倍かもしれませんが、数は一つです。エジソンは間違っていませんが、算数のテストては間違いとなります。このエピソードは、今思えば、このコラムのテーマにピッタリではないでしょうか。
「公式」というのは、例えば個数など一つの物差しでしか測ることはできません。つまり、視点を変えれば答えは複数になるということです。
テストで点数を取るためには、定められた答えを出す必要があります。でも、見方を変えれば明確に自分が答えを掴んでいる場合は、それが自分にとっての答えというわけです。言い換えるなら、「人の数だけ真実がある」というようなものです。
菅田将暉さん主演で話題となった、『ミステリという勿れ』という作品の中でも、第1話でこのように言っているシーンがありました。
(出典:『ミステリという勿れ』/小学館 田村由美)
ただ「真実は一つではない」と言うことは簡単ではありますが、このシーンは、この言葉の説得力を感じるものですし、量子力学的だなと感じます。
答えはひとつじゃない
何も、自分の答えが一番素晴らしいというつもりはありません。
もしかしたら、外にはもっといい答えがあるかもしれないですから。実際は、おそらくそうでしょう。でも大事なのは、良い悪い、正しい間違いということではなく「自分に合っているか」ということです。
それを知る為に、外に答えを求めることがあってもいいし、学んでもいいと思います。現代社会の功績としては、結果を求められることで、やりたくないことをやりながらも、自分だけではできない経験をすることで、より高次な答えを見出せるようになったことかもしれません。
ただ、知っておかなければないのは、自分に合った最適な答えは、自分の中にしかないということです。そして、答えを出したとしても、それはその時々における答えであって、後からもっと最適な答えが見つかることもあります。だからと言って、過去に出した答えを後悔する必要はないし、「せいをおかげに」と考えれば、「間違ったおかげで、最適解が見つけられた」とすることもできるわけです。
認識が変われば答えも変わるものです。外にある答えはもちろん、過去に自分が出した答えにも捉われすぎず、その時々としっかり向き合いイマココに生きて、道中を楽しんでいきましょう。それが、自分にとっての「最適解」を見出すことになるはずです。
成功ハラスメントにご用心
経営をしていたり副業をしていたりすると、色んなセミナーや講座に参加することがあるかと思います。よく、Youtubeの広告などでも、「副業で月10万円」とか、「私でも月収100万円になりました!」みたいなことを謳っているものを目にしたことはないでしょうか?
やはり、起業しようとしていたり副業しようとするのは、よりお金を稼ごうとか、成功するためではないかと思います。中には、自分がやりたい仕事をする為に、稼ぎは二の次という方もいるかもしれません。
そういった方であっても、「もっと稼げる仕事があるよ」「もっと事業拡大できたらいいね」「忙しいのはいいことだね」と言われたことがあるのではないでしょうか?私はあります(笑)
以前、「MAXさんは成功したいんじゃないですか?」と聞かれたことがあります。成功したいかしたくないかと言われれば、もちろん成功はしたいですが、その時私は、言葉に詰まりました。そこでひねり出した答えは、
「一般的に言われている成功はしたいと思わないけど、自分が思う成功であればしたいですね」
そう言うと、「ほら、やっぱり成功したいんじゃないですか!」と言われるわけです。厳密に言えば、私は成功する為に独立したわけではないんですよね。良い仕事をして、結果的に成功してるなら全然いいんですよ。でも、世間一般で言われている成功をしたいとは思わないんです。そりゃ、お金や仕事があるに越したことはないです。ただ、成功しなければいけないと言うような風潮は、ちょっと違うように思うのです。
「成功」よりも「幸せ(満足)」の方が大事
それこそ、「答えは自分が決めるもの」と述べてきたように、自分にとっての「成功」を追い求めればいい。世間一般で言われている成功を追い求めて、答えを外に求めた所で、それによって必ずしも「幸せ」になるわけではないのです。
セミナーなどで言われた通りにして、実際に月収100万円になったとして、それが自分のやりたいことであったり、どうしてもお金が必要であれば、何の問題もありませんが、実際の所、うまくいかない人の方が多いのが現状です。特に、そういった「うまい話」には、お金に困っているときほど引っかかってしまうものです。私MAXもそうでしたし、カミィも喜多も痛い目を見てきました…(^^;
私の知り合いでも、うまくいかずに大変な目に遭っている人がいます。
「成功=幸せ」ではない。成功するから幸せになれる(満たされる)、というわけではないということです。
「成功しよう」「お金を稼ごう」という言葉は、一概には言えませんが、ある意味「成功ハラスメント」だなと感じるところがあります。もし、これらのようなことを言われて、素直に心が反応しないのであれば、それはその人にとっては単なる「押し付け」「ハラスメント」でしょう。
「成功」という欲望で煽り、成功を望まないことは、まるで向上心のないダメ人間かのように否定する。これを成功ハラスメントと言わずしてなんと言いましょうか(笑)
大抵、巷のネットワークビジネス(という名のマルチ商法)や自己啓発セミナーなどに参加すると、主催者の思惑通りに参加者を誘導するように、あらかじめ考えられた巧妙な施策が施されています。「みなさんは成功したいですよねー?」という大号令のもと、そこに居る仕込まれたサクラや場の雰囲気や周りの同調圧力に圧倒されて、自分でもよくわからないうちに高額な商品を購入させられたりします…^^;(急いでクーリングオフしてくださいね!(笑))
そして、その「(一般的な)成功」も、前述の試験の例と同じように、実際はどこかの誰かが決めた『こういうのが正解』を強制的に押し付けられているのと同じようなものなのです。
このような様々な場面での、謎の公的抑圧(パブリック・プレッシャー)の中、誠に勝手ながら、【道楽家】としての成功は、「道中を楽しめたか(その瞬間瞬間に夢中になれたか)」ということに尽きると宣言したいと思います。その上で、結果も美味しいというのが理想的でしょうけど(笑)、いったい何の為に生きているのか。単にお金を稼ぐ為に生きているのでしょうか。死んだ時、お金を稼いだだけで、道中を楽しめなかった、と思うのと、大して稼げなかったけど、めっちゃ楽しい人生だった、と思うのと、どちらが「幸せ(満足)」でしょうか…?
もちろん、誰にも正解なんてわかりません。だからこそ「自分なりの正解」や「自分なりの軸」をしっかり持っていないと、あっという間に人生の黄昏を迎え、気付けば誰かが決めた誰かの成功や幸せを押し付けられて、自分らしい人生を生きれなかった~~ということになりかねません。
「全然楽しくなかったけどお金を稼げて幸せだった!」という方は、さようなら~(^^)/~~~
ま、そんな方も、せっかくなので後編までお付き合いください(笑)。もしかしたら、何か考えるきっかけになるかもしれないので。(決してお金を稼ぐことを否定しているわけではありません! ただ目的と手段を取り違えると、結局残念なことになることに気をつけてもらいたいのです)
前編のまとめ
前編となる今回は、「労働社会」や「成功」に関して、【道楽】の本質に迫りました。今までのコラムにもあった内容ではありますが、「【道楽】が人間の本質」だということを意識して、後編もお付き合いいただければと思います。
後編は、今【道楽舎】で大ブームとなっている(笑)、『おいしい給食』という、市原隼人さん主演の作品も引用してまいります。現在、『劇場版 おいしい給食〜卒業〜』が放映され、私MAXも観てきましたが、喜多はなんと2回観に行き、そのうちの一回は、舞台挨拶で市原隼人さんに会いに行きました(笑)
つい先日ですが、【道楽舎】3人が約3年ぶりに集まることができ、話題の中心は『おいしい給食』についてでした(笑)
この作品は、ただのドラマではなく、「道楽ドラマ」であり、市原隼人さん演じる甘利田幸男という、給食を愛してやまない教師の姿から【道楽】の真髄を感じたものです。ドラマを観たことのない方でも、「【道楽】という人間の本質」に迫ることができると思うので、ぜひチェックしてみてくださいね!
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