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【道楽】は人間の本質(後編)「【道楽】と物語の象徴」
人間の本質は【道楽】である。
ということをテーマでお送りする第3弾。
前編は、以前のコラムのテーマにもあった「労働社会の罠」というものが、「人から【道楽】という本質を見失わせている」ということについて言及しました。
中編では、生きていくには欠かせない「食」という観点から、道楽ドラマ『おいしい給食』という作品を参考にして、「本質とは何か」ということと、【道楽】を履き違える危険性などについて述べました。
そして、ちょっと間が空いてしまいましたが、最後となる後編では、私たちも大好きなアニメやドラマなどの「物語」というものにフォーカスを当てて、「【道楽】と『物語』の関係性」について。そして、「物語」の観点から、人間の本質がなぜ【道楽】なのかということを、突き詰めたいと思います。
物語の主人公は、人が【道楽】を求める象徴
【道楽】は人間の本質である。というテーマでお送りしていますが、その象徴としてあるのが、「物語」です。
アニメでもドラマでも、実はほとんどの物語の主人公は【道楽家】なのです。中編で取り上げた、『おいしい給食』の甘利田先生も「給食道」を究める求道家でもあり道楽家でもあります。特に、甘利田先生や神野ゴウは、特筆した【道楽家】だと思いますが、大体の人気作品の魅力的な主人公は、ほぼ【道楽家】と言っていいと思います。
例えば、『ONE PIECE』のルフィは、その代表と言えます。常識や人の言うことに捉われず、いかに自由で自分らしく生きるか、という姿に、【道楽家】である私たちも、ルフィの姿から学ぶ所がとても多いです。
『ドラゴンボール』の孫悟空も、「オラ強い奴と戦いてぇ」とよく言いますが、自分が一番強くなる為に修行をしているわけではなく、強い奴と戦いたくて強くなり、結果として最強クラスの強さを身につけたわけです。
例を出せばキリがないですが、なぜ、人気作の主人公は【道楽家】が多いのでしょうか?
それは、「本当はこんな風に生きたい」という、民衆の「本音」を描いているからです。
誰しも、ルフィや悟空のように生きたい。でも、「この社会の中でそんな生き方出来るわけない…」と思っていたり、無理だと思っているのだと思います。
『おいしい給食』道楽主人公
『おいしい給食2』の最終回で、こんなシーンがあります。
給食を食べに学校へ来ていると言っても過言ではない甘利田先生。そんな、教師にあるまじき姿を許せない教育委員会の鏑木は、甘利田を別の中学校に飛ばしました。そして転任先でもまた、甘利田を追いやる為に、甘利田に不信感を抱く学年主任の宗方を懐柔して利用し、帰宅中の買い食いを盗撮させます。
主任の宗方先生は、最初こそ甘利田に不信感を抱いており、それもあって鏑木の思惑に乗ってしまいましたが、甘利田を見続けて、見方が変わりました。しかし鏑木は、内偵させた後ろめたさを突き、宗方に内部告発させたように仕向けます。
鏑木の都合のいいように事を進めようと、事実だけ言わせて話を進めようとしますが、宗方は遮って言います。
「私は最初、甘利田先生が嫌いでした。
自由だからです。私はこんな不自由なのに、なんでこの人はこんなに自由なんだと。
だから嫌いでした。鏑木さんも同じなんですよね?」
給食が好きで、給食を食べるついでに教師の仕事をしているとも言える甘利田先生。主演の市原隼人さんも「好きなものを好きだと言える。好きなものに熱中できることは素晴らしい」と言っていますが、普通に考えれば、甘利田のような姿勢は、一般社会では受け入れられないでしょう。鏑木の言い分の方が、おそらく社会的には「正しい」と言えます。しかし、中編でも述べましたが、「正しい」を突き詰めても、そこに幸せはないどころか、場合によっては不幸を生み出すこともあります。何より窮屈です。
宗方も鏑木も、本当は甘利田のように生きたいはずです。宗方は素直に認めましたが、好きなものを好きだと言えて、誰に言われてではなく自由に生きる姿に、多くの人が憧れる。『おいしい給食』では、実は誰もが憧れる姿を、甘利田先生が演じているのでしょう。
メンバーの喜多が、『おいしい給食2』の最終回を特集しているコラムがあるので、詳しくはこちらをご覧ください(^^)
もちろん、社会において誰もが好き勝手に生きれば、収拾がつかず大変なことにはなるでしょう。言いたいことを言ったりやりたいことをやっても、人に迷惑をかけたり、場合によっては犯罪になることもあるかもしれません。
人を傷つけたり迷惑をかけないものであれば、人に言えずにできないことがあるのは、自分がおかしいのでしょうか。社会がおかしいのでしょうか。
『コードギアス』のルルーシュならこう言うでしょう。
「間違っていたのは俺じゃない!世界の方だ!!」
まぁ、これも一歩間違えれば危険な思想になりかねないので推奨はしませんが(^_^;)、ただ、何でもかんでも自分が間違っていると卑屈になる必要はないでしょう。世界が間違っているということだってあり得るかもしれないですから・・・。(というか、世界なんて最初から狂っていたんですから…^^;)
正しさとは何か
最近特に思うのですが、誰もが自分の正義や正しさを持っているかもしれませんが、それを他者に押し付けたり、当てはめようとするから、衝突するし争いにもなるんだろうと思うんですよ。ミスチルの『掌』という曲に、
「ひとつにならなくていいよ
認め合えばそれでいいよ」
という歌詞があります。2003年にリリースされた、今から約20年も前の曲です。当時も、「なるほどぉ~」と思ったものですが、今になってよりその価値がわかります。
【道楽舎】では以前から述べていますが、日本には「我も神、彼も神」という思想があります。つまりは、誰もが神であり、誰もが正しい。正しさの基準を設定するから、そうでないものは「間違い」「悪」とされてしまうのです。もちろん、全てが正しいと言うつもりはありませんが、誰の中にも「正しさ」はあるのだと思います。
それをひとつにするのではなく、認め合えば(シェアすれば)、否定し合うことも無駄に争うこともないんだと思います。自分なりの正義を持つことは否定しませんが、それを他者に押し付け始めると、それ以外はすべて間違い、悪だということにして排斥しようとし始めます。昨今のカルト宗教問題のような、まさに「カルト(偏狭な教義)」になってしまいます。
本音を誤魔化すな
『おいしい給食』に話を戻しますが、本当は甘利田を羨ましいと思っていた宗方は、その感情を認めてしまった方が楽だし、精神衛生的にも良いでしょう。つまりは、「幸せ」だということです。実際、甘利田を認めてからの宗方は、笑顔が増え、穏やかにもなりました。
「自分の本音を認める」ということは、簡単そうに聞こえますが、意外と難しいものです。ですが、とても大事なことでもあります。鏑木のように、誰かを目の敵にしてしまったり、怒りや憎しみを抱いてしまう感情の裏には、憧れや理想を抱く本音が隠されているのかもしれませんからね。
社会や常識に支配されて、仕方なく受け入れ従っている人にとっては、しがらみなどなく自由に生きる人を羨ましく疎ましく思うものでしょう。だから、鏑木は甘利田を目の敵にしたし、宗方でさえ、最初は甘利田が嫌いだったのです。
「~すべき」という思考は、本音を覆い隠す罠なのかもしれません。
人が物語に魅了されるのは、隠された本音をくすぐるからなのかもしれませんね。
『ONE PIECE』ルフィという道楽家
次に、【道楽家】の代表格でもある『ONE PIECE』のルフィをみていきましょう。
『ONE PIECE』の初期に、こんなシーンがあります。
「オレはさ、海賊王になるんだ!!!」というルフィの言葉に、コビーは「無理に決まってますよ!」と否定します。でも、ルフィは自分の言葉を微塵も疑っていません。というより、実際のところは、海賊王になれなくてもいいと思っているのではないかという節もあります。
ただ、無理だからやらないのではなく、無理だろうが自分がやりたいからやる、ということだと思うのです。できるかできないかではなく、やるかやらないか、ということです。
やれば、できる?
ちょっと話が逸れますが、芸人のティモンディ高岸さんが、「やれば、できる!!」とよく言っています。
これは、甲子園常連の名門、済美高校の校訓だそうですが、「やればできる」という言葉は、とてもポジティブで、たくさんの人を励ましていることでしょう。でも、私MAXは、あまりこの言葉が好きではありません(笑)。どう頑張っても、できないことはあるし、少なくとも私自身は、誰かに対して「やればできる!」と言うつもりはありません。そこで、道楽的に言い換えればどうなるかと考えてみました(笑)
「できなくたって、やればいい!!」
「やればできる」という言葉はとてもポジティブではありますが、ちょっとウラヨミ(裏を読むこと)してしまいます。それは、その裏に「できなきゃダメだ」ということや、「できないと意味がない」、というような感じがしてしまうのです。どことなくポジティブハラスメントの香りが漂ってきます(笑)
もちろん、できたことで得られるものや、感動もあると思います。「やって良かった」と思えることもあるでしょう。それに、できるのにやらないのなら、「やればできる」と思います。
注意したいのは、できなければ意味がないと思われてしまうことです。これはどこか「結果主義」に通じるものがあるように感じます。道楽的に見れば、できたという結果よりも、「やってみた」こと自体に価値があると考えます。つまり、できる・できない、成功・失敗で見るのではなく、「やってみた」ことに価値を見出せば、成功も失敗も、価値は同じということです。成功・失敗に良い悪いもなく、そもそも「やってみた」ことに意味があるのだから、結果として得られたものは、なんであってもいい、と思うのです。綺麗事のようではありますが、「できない」と思うことで自己イメージを下げたり、自己卑下してしまう人にとっては、「できなくたって、やればいい!!」と、結果を気にせず気楽にやってみたらいいんじゃないかと思います。
ルフィが【道楽家】である所以
話を『ONE PIECE』に戻します。
自分の意思を貫くルフィの姿を見て、否定していたコビーも、「海軍将校になる」という自分の夢を語ります。その後コビーは海軍に入り、地道に成長を続けています。
もし、ルフィという【道楽家】に出会っていなければ、コビーはアルビダどいう「支配者」にその後もずっと搾取され続けていたでしょう。
コビーの人生を大きく変えたルフィが、いかに【道楽家】であるかがわかるシーンが他にもあります。
「わりい。おれ死んだ」
まだグランドラインに入る前、ローグタウンというところにある、海賊王ゴールド・ロジャーが処刑された処刑台で、バギーに捕まった時、ルフィは笑って言いました。
本当に「海賊王」になるという結果を求めるなら、もっと悪あがきをしただろうし、みっともなく命乞いをしたかもしれません。
しかしルフィは、自らの死を悟り、笑いました。ルフィのような独自の生き方をする者を、「Dの一族」だからと位置付けていたりもしますが、私には、「海賊王」という結果を求めているのではなく、「海賊王」に続く道中を楽しんでいるように見えます。
海賊王になれなくても、海賊王の最期の場所で死ねるなら、それもまた本望だというように。
『ONE PIECE』の世界では、戦って強い者が正義です。それは、ルフィにも言えることで、ルフィも敵に勝ったことで人や国を救い、名を上げてきました。仲間を守る強さを手に入れるために、「ギア2」という技を生み出したり、かの有名な「3D×2Y」(3日後に合流するところ、2年の修行をして再会しようというもの。平たく言えば、「急がば回れ」w)で2年の修行を経て、強さを手に入れたわけですから。
仮に、強さだけを求め、大切な仲間を犠牲にして、多くの敵を生み出した上で海賊王になったとして、幸せでしょうか?海賊王になって良かったと思えるでしょうか?
やはり、夢への道中を大事にしてこそ、夢を叶える意味もあるのでしょうね。
【道楽家】ルフィの特徴
ルフィはことあるごとに、「オレは、海賊王になる男だ!」と宣言します。それは、自分自身を信じてやまないということでもあるでしょうし、「言霊」として言ってもいるでしょう。
『ONE PIECE』の世界観では、「海賊王」とは、グランドラインを周回した者。または、「ONE PIECE(ひとつなぎの大秘宝)」を手に入れた者のことを指します。しかし、ルフィの定義は違います。
ルフィにとって「海賊王」とは、
「この海で一番自由な奴」なのです。
つまり、ルフィとONE PIECE世界の認識は違います。だからこそ、敵対することもありますが、ある時ルフィは、負けることで自分を曲げないということがありました。
「空島があるかないか」を巡り、ハイエナのベラミーという海賊に笑われ、馬鹿にされました。ルフィは「このケンカは絶対買うな!!!」とゾロに言い、2人して無抵抗のままボロボロにされました。そこにいた黒ひげは、そんなルフィの姿を認め、「人の夢は、終わらねェ!!!!」と告げます。
結局、別件でルフィを怒らせたベラミーはワンパンで倒されました。あると信じた「空島」は在り、黒ひげとルフィはその名を上げていきます。
『ONE PIECE』においてはしばしば、自由の象徴であるルフィに対し、ベラミーのような、常識に縛られた存在や、自由に相反する「支配」を目論む相手が敵となります。
ルフィは、冒険をする中で、多くの人や国を救っていきますが、それは、多くの人や国を救う為に戦っているのではありません。
自分にとって恩を受けた人を助ける為に、結果として国を救うことになっているのです。喧嘩っ早いルフィなので、たまには気に入らないからぶっ飛ばすということもありますが(笑)、意外と、「気に入らない」という本音も大事なのでしょう。常識や観念に縛られていると、直感や本音、違和感に鈍くなってしまいますからね。
『HUNTER×HUNTER』の【道楽家】
【道楽家】を語る上で、【道楽舎】の理念でもある「道中を楽しむ」という認識を強めてくれたキャラに触れずにはいられません!
ジン=フリークス
主人公ゴン=フリークスの父親のジンは、生粋の【道楽家】です。それは、何と言ってもこのセリフに集約されます。
「道草を楽しめ。大いにな。
欲しいものよりも大切なものが
きっとそっちに転がってる」
【道楽舎】のコラムでも、度々引用していますが、ジンの姿勢、生き様は【道楽家】そのものであり、我々としても理想とする生き方です。
会長選挙編で際立つ道楽観
ジンは、キメラアント編が終わった後の、会長選挙編で登場が増えましたが、考え方や行動など、何にも縛られておらず、とにかく自由です。ジンは「十二支ん」という、ハンター協会の「亥」を担当する幹部でもあります。十二支んとは、キメラアント編で戦死したネテロ会長が気に入った実力者を選出して組織されており、ほとんどがネテロを信奉しています。それぞれが担当する十二支の動物の姿を取り入れており、「亥のジン」と「子のパリスタン」の二人は、(例外)とあるように、十二支に寄せることはありません。
それは、ジンとパリストンがネテロ以上に自分を信じているからです。十二支んのメンバーは、皆ネテロに憧れ、信奉しているからこそ、与えられた十二支に寄せているわけですが、それは、気に入られたい、好かれたいという思いの表れの一つだと思います。
その筆頭に、「チードル」という戌を担当するキャラがいます。
犬のナリをしていますが、「忠犬」と言われるように、チードルはまさに忠実な犬のイメージを形にしたようなキャラです。正義感が強く、常識的な人物で、日本人の代表のようなキャラです。
チードル本人は一生懸命頑張っているんですが、パリストンに仕掛けられたジョーカーゲームにまんまとハマり、見事にあしらわれてしまいます。パリストンとの勝ち負けに拘るチードルは、勝ち負けに執着のない(本来の目的が別にある)パリストンにとって相手になりません。そもそも勝負していないパリストンの真意を理解できないチードルは、ジンを頼ったりもしますが、こう言い返されてしまいます。
「今残ってる4人でネテロの遺志を継いでるのは、パリストンだけだ」
これは、会長選挙で4人に絞られた時です。ジンはこうも言っています。
「アイツはただ楽しみたいたいんだ。オレやネテロといっしょだよ」
つまり、パリストンもジンもネテロも、結果のために動くのではなく、楽しむために動いている【道楽家】だということです。ただ、パリストンに関しては、【闇の道楽家】という印象ではあります。
ジンは目指すべき【道楽家】だと考えていますが、そのジンでさえ、かなりの嫌われ者です(笑)
パリストンもジンも、その自由さが故に周りを振り回してしまうところがありますが、大きな違いがあります。それは、結果的に多くの人が幸せになるか、ならないかという所です。
ジンは、自分が楽しむことはもちろんですが、無茶振りをしたり、気に入ったゲーム名にする為に名前をどぅーん!と変えられた哀れな人もいます(笑)。
ただ、結果としては、運気が上がったり、ジンがした事が後々の功績になったり、遺跡発掘に関してはジンが生み出した手法がスタンダードにもなったりしています。
ジンの場合は、嫌われているとはいえ、面と向かって文句を言えたり、どこか憎めない感があります。しかし、パリストンの場合は、今でいうカルトなオンラインサロンみたいな感じがして、取り巻きは、ついて行けばいい事ありそうというコバンザメ感があるのですが、パリストンにいいように利用されてポイされる、みたいな感じがします…(^^;
そんなシーンはないので、あくまでイメージですが、ジンといれば、道中大変だけど結果的には良かったと思えて、パリストンといれば、道中に良い事があるけど結果的には不幸になる、というような印象です。
ジンもパリストンも「道中を楽しむ者」ではあっても、楽しみ方や在り方の違いがあり、周りに及ぼす影響も変わってくる。
【道楽舎】としては、周りに悪影響を及ぼす【陰(闇)の道楽家】ではなく、結果として自分が楽しむことはもちろん、周りともシェアできるような【道楽家】で在りたいと思っております。
【道楽】は人間の本質 まとめ
【道楽】は人間の本質である、ということを、三部に渡ってお送りしてまいりました。
前編では、今の社会は【道楽】という人間の本質や、人間として生きる本当の目的がわかりにくいと申し上げました。なぜなら、誰しもが【道楽】に生きたら、困るからです。
物事は8対2で構成されると言われてる「パレートの法則」というものがありますが、会社で言えば、社員の8割が平社員やバイトで、2割が役職を持った指示を出す管理職です。
社会も同じように、8割が労働者だと置き換えられます。労働者とはつまり、「結果」を押し付けられ、【道楽】という人間の本質を抜かれた存在なのかもしれません。2割いる搾取する側にとっては、「人間」とは呼ばないのかもしれないですね・・・。だから、つい100年前まで、植民地があったり、奴隷制が存在し、未だに差別もなくならないわけです。『幽☆遊☆白書』の飛影や仙水は、その醜い部分こそ人間の本質だと捉え、仙水は闇堕ちしました。醜い部分だけが人間の本質だとは思いませんが、その醜さを目の当たりにしてしまったら、そう思いたくなるのも仕方ないのかもしれませんね。
人間の本質として【道楽】を掴めたのなら、それはある意味、人間(生命)に戻ることなのかもしれません。【道楽】という人間の本質を忘れている人々は、迷える子羊(家畜)なのかもしれません。
『進撃の巨人』で言えば、壁の中が全てだと思わされている壁中人類です。家畜の安寧を望むのか。それとも、自由の翼を手に入れて、巨人という恐怖の象徴と戦いながら、残酷な世界と向き合うのか。
どちらがいいかは、人それぞれでいいと思いますが、戦うべき時に心臓を捧げないと、巨人にパクッと食べられてお終いです。
今は、大きく時代の流れや価値観が変わっている最中のように感じています。今までの延長線上で考えていたら、おそらく時代の流れに飲み込まれてしまうでしょう。日本では、わずか約150年前に、明治維新によって国の在り方が大きく変わりましたが、現在はそれ以上の変革が起こっているのかもしれません。或いは、人類が経験したことのないような変革なのかも・・・。
いずれにせよ、これからどんな時代になるのか、と不安を募らせたり、焦って何かを始めたり、終わらせる必要もないのかもしれません。どうなるかわからないのなら、どうなってもいいように、今を楽しむ、道中を楽しむという【道楽】を忘れずに生きていきたいものです。
その為にも、後編ではアニメやドラマの主人公を取り上げましたが、皆さんが憧れる主人公を見倣って、自分らしい人生を生きれば、それが多くの人を感動させてしまう物語になるかもしれないですね。
画像出典:『ONE PIECE』/尾田栄一郎 集英社
『HUNTER×HUNTER』/冨樫義博 集英社
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