【道楽】は人間の本質(中編)「おいしい給食が語る『本質』」

【道楽】は人間の本質(中編)「おいしい給食が語る『本質』」

 

いつものように、前編の前置きが長くなってしまったので、本来は前編・後編と2部で分けるつもりでしたが、さらに長くなってしまったので、急遽このコラムを「前・中・後」編の三部作にさせていただくことになりました(笑)

内容が「人間の本質」に迫るものなので、壮大なテーマだからかもしれません。

前編では、労働社会や成功についてなど、以前配信したコラムの延長のような内容だったのではないかと思います。

今回の中編では、主に「食」という観点から、『おいしい給食』という道楽ドラマを参考にしながら、「なぜ【道楽】が人間の本質なのか?」ということに迫りたいと思います。

 

過程を楽しめるのは人間だけ

「食」にまつわる人間と動物の違い

まず、「食」というものについて、考えていきましょう。

動物は、本能のままに生きています。例えば野生の動物は、生きる為に狩りをし、獲物を仕留めて食べます。多少、好みの肉や木ノ実や葉っぱなどがあるかもしれませんが、人間のように調理することなんてないし、必要以上に狩ったり食べたりもしません。しかし、人間にペットとして飼育されている動物は別です。彼らは毎日餌をもらうことが当然になってしまい、段々と贅沢にもなるし、猫も「チャオチュール」を覚えてしまったら、乾燥したキャットフードはあまり食べなくなってしまいます(笑)

MAXが大好き過ぎて、Youtubeチャンネルまで始めてしまった「ナマケモノ」も、野生下では、1日に8gほどしか食べず、排便も週に一回。イメージ通りほとんど動かず、体に藻が生えるほどです。というのも、動きが遅いので、天敵に狙われたらひとたまりもないからです。そこで、「動かなければ、動物と認識されない」というのが、ナマケモノの生存戦略なのです。

https://www.youtube.com/channel/UCccX39YIcnbmJdjoueVT0hQ

しかし、飼育されているナマケモノは、食べる量も多く、とてもよく動きます。排便もほぼ毎日するそうで、周りに天敵もいないので、意外と攻撃的だったりもします(笑)

 

「おいしい」という、食べる目的を超える価値

少し脱線しましたが、野生の動物にとっては、生きるために「食べること」自体が目的で、それが全てと言えるかもしれません。そんな野生動物も、飼育されることで、贅沢になってしまうというのは、面白いものですね。まさに家畜の安寧(笑)


(出典:『進撃の巨人』/諫山創 講談社)

しかし、人間は「食べる」こと一つとっても、手間を掛けて調理をするし、時には必要以上に購入したりします。それは、「いかに美味しく食べるか」を目的にしているからです。動物は本来「食べる」ことは、生きることが目的であり、必要な栄養を摂取できればいいわけです。ですが、美味しいご飯や、それを食べさせてもらえることは、野生の動物でさえ、家畜やペットとして飼うことができるほどの魅力があるわけです。

DR.STONEでは、主人公の千空が、未来の原始人に取り入る為に使った手段は、「食」でした。猫じゃらしでラーメンを作り、文字通り胃袋を掴んだわけです。


(参照:『Dr.STONE』/稲垣理一郎・Boichi 集英社)

本来「食」とは、必要な栄養を摂ることを目的としているわけなので、必要な栄養を摂取できれば、別においしい必要はないわけです。ですが、「飯は文明の根幹」と述べているように、「美味しい」ということだけで、人を仲間にすることができたり、何より幸福感を味わうこともできます。「おいしさ」には、それだけ価値があるということです。

 

「おいしい」が招く弊害

フードロス問題

コンビニやスーパーなどでは、お弁当や食材など、売り切れになっては営業が成り立たない為、在庫を過剰に抱えることが多く、売れ残った物は廃棄処分するという、フードロスの問題があります。

フードロス問題はある意味、資本主義経済の弊害によるのかもしれません。

野生の動物では、穴に隠していた獲物を暑さなどで腐らせてしまうことはあっても、必要以上に食材を確保しません。フードロスは、人間(文明)ならではの問題だと言えるでしょう。

資本主義経済の弊害でもありますが、【道楽】の注意点でもあるかもしれません。

【道楽舎】にとっての【道楽】とは、「道を楽しむ」という意味です。しかし、【道楽】の意味を履き違えてしまうと、中には「楽な道を進む」と捉える人も出てきてしまいます。一般的には、もしかしたら「楽な道を進む」という解釈なのかもしれませんが、【道楽舎】が発進している【道楽】は、真逆の意味だと言っても過言ではありません

 

履き違えられた【道楽】

【道楽】を履き違えてしまうとどうなるのでしょうか。

人間社会では、おいしくなければ飲食店や食品は成り立ちません。そういったこともあり、「美味しい」を追求するあまり、旨味成分と言われる「アミノ酸」であったり、化学調味料や添加物がふんだんに使われることにもなっている現状があります。これらは、美味しいが故に中毒性が高く、多分に使われるお菓子類などは、ついついやめられない止まらない状態になってしまうものです。そうなると、栄養が偏り、終いには病気になったりします。

そうまでして、ついつい体に悪いものを摂取してしまうのは、「おいしい」の他に、製造コストや購入コストが「安価」という理由もあります。これもある種の「労働社会の罠」と言えるのかもしれません。

人はなぜ働くのか?「あたり前」に仕組まれた罠(働き方三部作・前編)

 

「労働社会」による弊害

毎日忙しく働き、自由に使える時間は限られてくる。仕事で疲れて帰ってきて調理する元気もなく、簡単なお惣菜やUber Eats、外食に頼ってしまうこともあるのではないでしょうか。かと言って、外食などは高くつくので、一般的に普通に働いていて、ある程度決まったお給料では、毎回そんなに贅沢はできません。

今や夫婦共働きの家庭がほとんどで、「男は外で仕事、家事をするのは女性」という昭和の価値観はすでに終わりました。日本でも「格差社会」と言われて久しい昨今、忙しくてお金も時間もない、という方も多いのではないでしょうか。

そうなってしまえば、大量生産された化学調味料や添加物満載の安いものしか買えず、いずれ何らかの病気で病院のお世話になり、治療費が掛かり、ますます貧しくなるという悪循環にハマってしまいます

また、「カロリー」というものがありますが、過剰に摂取すると、栄養過多、肥満、生活習慣病になる懸念も出てきます。例えば、ジュースやお菓子などで「カロリーオフ」という表示を見ることがあるかと思いますが、カロリーを減らす為に、砂糖の代わりに人工甘味料を使っているものがあります。「カロリーオフ」という表示を見ると、体に良さそうだと感じ、ついつい手にとってしまう方も多いのではないでしょうか?

MAXも、以前はその一人でした。ただ、色々調べて実際の現状や裏側を知っていくと、そんな単純な話ではないと知りました。本コラムでは深く追求はしませんが、これもある意味においては、「労働階級の罠」に通じるのかな~と感じてしまいます(^^;

 

「食」の本質とは?

話を元に戻しますが、人間にとっては、本来の「食」の目的である、「栄養を摂取する」という【結果】ではなく、「美味しく食べる」という【過程】の方が、実は価値が高いわけです。美味しいご飯を食べられることは、本当に幸せなことですからね。さらに、その美味しい食事を「誰と一緒に食べるか」というのも、とても重要な価値の一つになります。そう考えると、人間は動物とは全く違う価値を「食事」に求めていることがわかります。

「料理は愛情」なんて言われたりしますが、親は子に、「元気に育ってほしい」という愛情を込めてご飯を作るものです。しかし、労働による忙しさや様々な理由により、つい楽をするために、調味料を使って手間を省いたり、添加物たっぷりの出来合いのものを買ったりすることもあるかと思います。

「楽をしたい」というのは、人間の本能でもあると思うので、全てを否定するつもりはありません。ただ、「道を楽しむ(手間を掛ける)」という観点を忘れてしまうと、結果的には、いわゆる現代病になってしまったり、不幸せな状態になってしまうことも大いにあるということです。

美味しいご飯を食べる幸せを描いた『おいしい給食』というドラマがありますが、この作品は、【道楽舎】も認める「道楽・神ドラマ」です。

 

『おいしい給食』に見る【道楽】

主人公の中学教諭の甘利田先生は、給食を食べに学校に行っていると言っても過言ではない先生です。それを周囲に知られないように、普段は厳格な指導をする教師を演じていますが、いざ給食の時間になると、溢れ出る喜びを抑えられず、周りの目を気にせずに踊りまくります(笑)

そんな甘利田先生と同じくらい給食が大好きな生徒「神野」は、いつも甘利田先生が思いも寄らない方法で給食を美味しくアレンジして食べ、ドヤ顔をしては、毎回甘利田をハラハラ・ドキドキ・ヤキモキさせます。

この二人はとにかく給食が大好きで、それぞれの向き合い方で給食を食べるのですが、まさに「食」を通じた道楽ドラマだと思っています。「給食」というテーマをここまで掘り下げて物語にしたのもスゴイですが、内容はかなり奥深く、笑いもあり、時に涙することもあるコメディなので、とてもオススメの作品で、「太鼓判」ならぬ【道楽判】を押します!(笑)

このドラマの時代背景は1984年頃なので、戦後の復興から立ち直り、高度成長からバブル経済へと日本が駆け上がっていく時期でした。戦後の食べ物がなかった日本の子供たちに栄養ある食事を食べさせる目的で導入され、はじめは食べられるだけでありがたい粗末な内容だった学校給食も、次第に量も種類も増え、さらに「おいしく」なっていく時代の過渡期でした。「給食」を食べられること自体は本当にありがたいことですが、色々と見過ごせないこともあります。もしかしたら皆さんも経験があるかも知れませんが、ドラマ中では、給食を食べるのが遅くて休み時間になって一人で食べるのが嫌でゆっくり味わうことができないストレスを抱えていたり、もったいないから食べ残してはいけないという謎のプレッシャーがあったり、やたらと給食費が盗まれる事件(笑)…なんてことも起きます。

この辺は、あまり踏み込むのは危険なので、これ以上は言及しませんが、お有り難い「給食制度」にも、色々と「裏」がある。ということだけ申し上げておきます…

 

劇場版で描かれた、【道楽】の本質

ここからは少しネタバレにもなりますが、現在公開中の『劇場版 おいしい給食 〜卒業〜』を引用していきます。

給食好きの甘利田に、「給食内容が変わるため、試食会のお知らせ」が届きます。甘利田は、その試食会に保護者に紛れて潜入し、今後提供される給食を味見します。給食への気持ちの高ぶりは抑えつつ、落ち着いて口に運びます。しかし、その味付けはなんとも味気なく、量も少ない。どのメニューに手をつけても、いつもの給食の味は、そこにはありません。

「今後、給食はこんな薄味になるのか・・・」

居ても立っても居られない甘利田は、給食センター職員に「以前よりも味が薄いようですが?」と詰め寄ります。すると「成長期の児童の栄養バランスを考え、肥満防止のために量も減らしています」と答える。そのごもっともに聞こえる返答に甘利田は、こう返します。

「あなたは、給食の本質を見失ってる!」

劇場版では、この言葉が一つの焦点になっていますが、甘利田の言う「給食の本質」とはなんでしょうか?

おそらくは、「おいしい」ということだろうと思います。給食は、日本独自の文化でもあり、家族以外の他人と食事を共にする初めての「外食・会食」とも言えます。

『おいしい給食』の給食シーンは、甘利田先生が踊りながら食べたり、神野が工夫しながらおいしく食べていますが、他の生徒たちも、おいしそうに、そして楽しそうに食べています。お互いに机を向かい合わせて、ワイワイと楽しく会話しながら過ごすかつての給食の時間は、今では、机を離し、仕切りをして黙食をしているコロナ禍では考えられないかもしれません。

 

今こそ、敢えて「密」になるべき?

主演の市原隼人さんも、舞台挨拶でこのように発言しています。


「人は、顔と顔を付け合わせるべきだし、もっと密になるべきです」

と。今現在の状況では、受け取る人にとっては、不謹慎だと目くじらをたてる人もいるかもしれません。しかし、そう語る市原隼人さんは、目に涙を浮かべているようで、昂ぶる感情を抑えて、言葉を選んでいるようにも見えました。

しかし、この3年間で失われたものが沢山あるのも事実です。行動を制限され、人と人との直接の交流が激減しました。飲食店をはじめ、多くの企業が閉店、倒産し、「命を守るため」という大合唱のもと、本来なら失わずに済んだ「命」を失った方々もいるでしょう。それでも、やはり人間は本質的に社会性の強い生き物で、本当の意味で、人は一人では生きていくことも、幸せになることもできません。命を守ることも、生きるということに関しても、「本質を見失う」ことは、とても危険なことではないかと感じます。

 

給食の本質とは?

また話が逸れましたが、「給食(食べること)の本質」とはなんでしょうか?

甘利田先生が言いたかったことは、「おいしい」ということでしょう。おいしいからこそ、生徒たちも楽しく幸せそうに給食を食べます。その時間こそが、給食の醍醐味であり、幸せな時間を過ごすという「本質」なのではないでしょうか?

ただ、注意しなければいけないのは、給食センターの職員の言い分も、また「正しい」ということです。敢えて「正しい」と申し上げましたが、生徒の成長を考えて、必要な栄養を摂取できるようにすること。肥満防止の為に、量を調整することも、当然間違っていることではないし、むしろ「食」の本来の意味だろうと思います。「正しさ」で言えば、甘利田先生の方が言っていることはめちゃくちゃだったりします(笑)。「給食とは、いい加減であるべきだ」と。子供に食べさせる責任ある立場からすれば、栄養に配慮するのは当然で、甘利田の主張は、「おいしい」「楽しい」を優先した意見で、「正しい」とは言い難いものです。だからこそ「正しい」と表現しましたが、この「正しい」を突き詰めた結果どうなるかということも、劇場版では描かれています

 

「正しい」を突き詰めた結果

おいしかった給食が、給食センターの意向によって、栄養重視の味に変わりました。

栄養学的に、必要な栄養を摂取させるために、味はマズくなり、肥満を防ぐために量を減らしたことで、おかわりもできないということでお腹いっぱいになることはなくなりました。しかも美味しくないから、給食を残す生徒が続出します。誰よりも給食が大好きな甘利田だからこそ、本来なら叱らなければならない所、何も言えません。

教室のみんなが、あんなに楽しそうに、幸せに過ごしていた時間はなくなりました。

きっと、甘利田や神野ほどではなくても、給食を楽しみに学校へ行っていた生徒もたくさんいるはずです。特に、好きなメニューだったら嬉しかったはずです。しかし、好きなメニューでさえ、味気なくおかわりもできず、満たされることがなければ、人によっては一番の楽しみが奪われるのです。

「おいしい食事は、一番簡単に幸せになる方法だ」と、芸人のたむらけんじさんが言っていましたが、確かにその通りなのかもしれません。

そんな「おいしくない給食」に、給食マニアが黙っていられるわけありません。神野は甘利田先生に、「先生はこのままでいいんですか!?」と問います。甘利田の答えは、「給食をもらえるだけでもありがたいと思え…」ということでした。もちろん、本心からではありません。大人として、先生という立場としての答えでしょう。確かにありがたいことではあっても、納得できるものではありません。

今回のテーマとして言えることは、「正しい」を突き詰めた結果、必要なものだけを求めていても、そこに「幸せ」はないということです。

必要な栄養だけを摂取しても、おいしくなければ食べる気にもならない。それでも、栄養という「正しさ」を振りかざし、おいしくもないものを無理やり食べさせるのは、もはや食の暴力です。甘利田先生は、そのことに対して怒りを露わにしました。そして、それこそが「本質を見失っている」と指摘したことです。

もちろん、教育委員会や管理栄養士や給食センターの言い分は間違っていないし、むしろ正しいと言えます。ですが、「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉があるように、たとえそれが善意であっても、「【道楽】という本質を見失うと、絶望が待っている」ということを知っておかないと、どんなに正しいことであっても人は幸せにはならないのではないでしょうか。

 

「食」以外の【道楽】「衣」

「食」は、人間の生活に欠かせない「衣・食・住」の一つですが、同じく衣服にしても住まいにしても、人間は様々な服を着るし、様々な家も建てます。「衣」も、「食」と同じように【道楽】がわかりやすいと言えます。「衣」の、体を守る、寒暖を凌ぐという本来の目的もありながら、「おしゃれ」「機能性」を重視した、様々な衣服が作られます。時に、「おしゃれとは我慢することだ」と言われたりしていますが、全く体を守ることなく、寒暖から身を守ることを放棄した服もあります。まことに個人的な意見ですが、多くの人がそうなるには不可能な体型のスーパーモデルがランウェイを歩くドレスなどを見ると、「衣」の本質や役割を為していないのでは?と感じてしまいます。それこそ本来の目的とは逆行しているのではないかと…。(よくよく気をつけないと、ここにもジョーカー・ゲームの罠が…^^;)

それでも、数え切れないほど洋服のお店があり、様々な洋服が売られています。もちろんそれは本来はとても良いことなのです。特に若いうちは、多少暑さや寒さを犠牲にしても、いかにおしゃれな格好をするかがとても重要だったりします。また、男性の中には「制服フェチ」な人が多いと思いますが(笑)、服装は時に新たな目的(フェチ)を生みだします。男であれば、女性がスカートを履いていたら中身が気になってしまうし、胸元が開いている服だったら谷間に目がいくし、ニーハイとミニスカートによる「絶対領域」に抗える男はこの世に存在しません…(笑)

女性であれば、男性が仕事終わりにネクタイを緩める仕草だったり、腕まくりをする仕草にキュンときたりするそうです。(MAX調べ)

このように、モテたいとか、可愛く見られたいなど、異性の気を引くということが、本来の目的以上に求められることがあります。

太古の狩りをしていた昔なら、動きやすさや機能重視だったでしょうけど、狩りをしない現代での「衣」の役割は、視覚的に楽しむことが大半を占めているとも言えるので、必ずしもファッションそのものを否定するわけではありません。ただ、何事も行き過ぎると本質から離れてしまい、いつの間にか手段と目的が逆転して、結果的に残念なことになってしまうことが多いのも確かです。

 

中編のまとめ

というわけで、『おいしい給食』というドラマを元に、「食」という観点から【道楽】の本質について言及してきました。言及し過ぎて、予定していたよりもボリューム増になってしまったので、急遽三部作とさせていただくことにします(笑)

【道楽舎】にとっては、とても重要なテーマということで、ついつい熱が入ってしまいましたが、短いコラムにまとめられるわけもありません(笑)

それに、今こそ必要なテーマでもあると思うので、語れる範囲でじっくりと考えていきたいと思っています。文字にしてしまうと、誤解を招くこともあるかもしれないし、あまり表立っては言いづらいことでもあるので、もっと聞きたい方は、直接「密に(笑)」語り合いましょう!!

以前のコラムでRe:青春」というテーマでお送りしましたが、いずれ、【道楽舎】としてのイベントを開催したり、また、オープンチャットなど、色々と交流の場を考えておりますので、その際は随時お知らせしてまいります。

卒業生、新入生、新社会人に捧ぐメッセージ!(後編)「【Re:青春】から始める道楽生活!?」

後編では、【道楽】と「物語」というものについて言及してまいります。我々は、アニメやドラマが大好きなのですが、なぜ人は「物語」が好きなのか。そこに、【道楽】という本質が隠されているので、次回は「物語」という観点で、【道楽】という本質に迫ってまいります!

 

 

ABOUTこの記事をかいた人

道中を楽しむ道楽家として人生を謳歌し、自分にしか出せない価値を生み出す! そのためのきっかけ・環境をつくるのが`道楽舎` 思うがまま自由に、本当の自分で生きていく。 道中に転がる大切なものを見つけ、欲しいものも手に入れよう!