脱炭素ならぬ、【脱・二項対立】(中編)「二項対立の恐ろしさと裏にある思惑」

脱炭素ならぬ、【脱・二項対立】(中編)「二項対立の恐ろしさと裏にある思惑」

 

今回は、【脱・二項対立】というテーマを掲げて送る三部作の中編です。

前編では、「二項対立」というものがどういうものか。そして、「二項対立」は、人や世界をカルト化させる一面があり、昨今のカルト◯◯と言われるものの裏には、「二項対立」が関連しているということも述べてきました。

中編では、さらに禁断の領域に踏み込んで行くこととなります。まさに「パンドラの箱」を開けるようなものです。覚悟してご覧ください(笑)

しかし、これだけは言っておきます。「パンドラの箱」を開けると、ありとあらゆる災厄が飛び出しますが、最後に残っているのは「希望」だと言われています。

【脱・二項対立】の三部作は、前編がパンドラの箱を認識するもので、中編で蓋を開けて災厄が飛び出す。そして、後編こそが「希望」となるような内容になっているかと思います。つまり、後編まで読まなければ、絶望のままで終わってしまうので、読んでいただいている方は、ぜひ最後までお付き合いください。まぁ、後編の「希望」だけを読むのも悪くはないのですが(笑)、「希望」を「希望」として認識する為には、「絶望」を知らなければなりません。特に中編は、あまり知りたくないような重い内容かもしれませんが、「希望」を見い出す為の通過儀礼のようなものです。

何か響くものがあれば、「二項対立」を抜けて生きられる「希望」のようなコラムになるのではないかと思います。

 

二項対立の恐ろしさ

二項対立の罠に陥ると、人々は「分断」されて敵味方に分かれることになり、「敵であれば倒してもいい」と考えるようになります。そこから二項対立の沼にハマり、カルト化してしまうと、「倒してもいい」どころか「倒した方がいい」とエスカレートしていきます。もっと言えば、「倒さなければならない!」となってしまいます。

前編でも取り上げましたが、特に宗教というのはその傾向が強いと言えるでしょう。宗教には厳粛に定めたれた教義やタブー(禁忌)が多く、信仰とはある種の強力な思い込みでもあるので、自分たちの教義を批判されたり、タブーに触れられると、「我々の神を冒涜したものを許してはならない!」と、とても偏狭的、排他的な面が出てきます。「正しいものは、悪しきものを断罪してもいい」「~すべき、~しなければならない」と、正義感の強さに応じて、彼ら「独自の正義」を振るいます。極論、「正しいのだから、悪に対して何をしてもいい」「滅ぼしてもかまわない」という思考にもなりかねないでしょう。

2001年に起こったアメリカの同時多発テロも、一般的にはキリスト教とイスラム教による宗教戦争だと言われていますが、キリスト教には、古くは「十字軍」という聖なる軍隊があり、イスラム教には「聖戦」という教えもあります。つまりは、神を守る為ならば、敵と戦うことは「聖なる戦い」として許されているわけです。

 

本来は人々を救うはずなのに、なぜか不幸を生む矛盾

本来、宗教の存在意義は、苦しむ人や不幸な人を救ったり、幸せに誘ったり、平和な世界にすることではないでしょうか。確かに、教義上や表面上ではそのように言っていたり、理想的なことをもっともらしく語りはしますが、実際に展開された実態や実情を見れば、その矛盾は誰の目から見ても明らかです。人類の歴史は戦争の歴史とも言われますが、世界の紛争原因の殆どが、宗教(一神教)を根源に持っています。本来人類を救済するはずの宗教が、有史以来人類をずっと苦しめ続けている現状に、誰もが一度は疑問と違和感を覚えたことでしょう。もちろん既成の伝統宗教を信じ、人と争うことなく心穏やかに人生を全うする方もいると思います。それはそれで何ら問題はないし、幸せな生き方だと言えるでしょう。

ただ、特に気をつけたいのは、近年起こった新興宗教(団体)には、その教祖や創始者の偏狭で独善的な教義を元にした、カルト(熱狂)的で過激なものが多いのが事実です。それは、新興宗教をよく知らない方でも、連日メディアで話題になっている某教会の元信者や2世信者の声を聞けば、よくお分かりになるのではないでしょうか。(今回の某教会だけでなく、度々世間を賑わす新興宗教の実態は、どこも皆同じような問題と被害を定期的に起こしています)

そんな新興宗教であっても、教えに感銘を受け、もっと知りたい、学んでみたいというファン(信者)になり、一時期は救われたような気持ちになることもあるでしょう。しかし、そこには様々な「思惑」が渦巻いており、時には「洗脳」や「マインドコントロール」という手法を駆使して、最終的に教団のために惜しみなく金銭や時間や労力を差し出させるための巧妙な仕組みが張り巡らされています。そして、自分でも気づかないうちに、いつの間にか教祖を神の如く崇め、教義に従順になり、伝道やお布施を繰り返していくうちに、さらに深く信じ、熱狂(カルト化)していきます。本人自身が幸せを感じているだけなら、たとえ破産や破滅をしてしまっても自業自得といえますが、それに巻き込まれる家族や恋人、友人にとっては、熱狂化した本人との温度差があってついていけなかったり、迷惑を被ることもあります。

わかりやすい例で言えば、興味のない歌手のライブに、熱烈ファンの友人に誘われて連れていかれるような感じです。曲もよく知らないからいまいち乗れないし楽しめない。ファンからすれば、曲が良くてライブも最高だから、絶対に盛り上がると思っているのですが、興味もなく知らない側からすると、正直いい迷惑だったりします(^^;。もちろん、そのライブをきっかけにファンになることだって十分にあります。ライブはある種のカルト(熱狂)を生み出すものでもあるので、その勢いに乗せられることもあり得ます。

歌手のファンならまだ健全で実害も少なですが、宗教となると、人生を左右しかねない強力な「二項対立」にハメられてしまうので、それを分かった上で関わった方がいいのだろうと思います。
本来、人を救ったり幸せにするはずのものであっても、実態として多くの不幸を生み出している矛盾の裏には、やはり「二項対立」があるということでしょう。

 

触らぬ神に祟りなし?

メディアでも、毎日のように某教会について触れ、元信者という方々がその危険性について語っていますが、某教会や他の多くの宗教団体に限らず、「二項対立の沼」にハマってしまうような危険性があるものは、十分注意が必要でしょう。最近では、爆笑問題の太田光さんの発言が、「全くわかっていない」「カルト宗教を擁護するな」などと炎上しています。カルト宗教を例えるなら、蜂の巣のようなものです。下手に蜂の巣を突くと、蜂が一斉に飛び出して攻撃してきます。ちゃんと、蜂駆除のプロに任せないと、被害は自分だけでなく、近隣の家にも及んでしまいます。言い方は大変悪いですが、「触らぬ神に祟りなし」というように、下手に手を出さない方が良いのでしょう。駆除するどころか、逆に刺されて被害を拡大させることもあります。もちろん、身近な人が深く関わっている人にとっては、頭を悩ませる問題かとは思いますが、これも人と人を2つに分断して争わせる「二項対立」の厄介なところだなと感じます。

既に沼にハマっている場合、抜け出すのは容易ではありません。熱烈なファン(信者)であるうちは、簡単には抜けられないでしょう。抜けられるのだとしたら、自分が当事者になることです。当事者とは、「痛みを味わう」ということです。ただ、それはとても厳しいもので、簡単なことではありません。宗教はある種の洗脳がかかってしまいますが、洗脳を解くことは容易ではないからです。場合によっては、洗脳を解かない方が幸せかもしれません。あまりに失ったものが多いと、その事実を認めることは、とても苦しいからです

映画『MATRIX』でも、サイファーという裏切り者がいますが、彼は、真実(現実)を知った上で、それでも元のマトリックス(仮想現実)に戻りたいと、仲間を裏切りました。

真実を知ったからといって、必ずしも幸せになるとは限りません。知らない方がいいこともあるのかもしれません。もしかしたら、無意識下でそれをわかっているからこそ、今の自分を正当化するために、心の奥底の本音に蓋をし、信じ続けることしかできず、「二項対立」を抜けられないのです。

強いていうなら、「もう嫌だ!」と心底思えるような、全てを失っても構わないと思えるくらいの出来事が起こることが、大きなきっかけになるでしょう。言い換えるなら、死にたくなくなるような経験を乗り越えること、と言えるかもしれません。「死」を受け入れるからこそ、「生」を真剣に生きられるものですが、ある意味「死を覚悟」することは、今までの全てを捨ててもいいと思えることに等しいです。後半で、「神話の法則」についても触れますが、多くの人が感動し、心を揺さぶられる物語は、ほとんど「神話の法則」に則っています。その理由の一つには、主人公が死をも覚悟し、試練を乗り越える姿が描かれているからなのかもしれません。「神話の法則」については、また後ほど詳しく取り上げます。

 

カルト化する過剰な正義感の怖さ

前編でも、「カルト化」について触れて来ましたが、「二項対立」の沼にハマってカルト化してしまうと、視野の狭い「自分達の正義」に傾倒していきます。そうなると、自分達以外の「敵」に対して、とても過激で攻撃的になっていきますが、それはもはや「悪」ともいえる「過剰な正義感」にもなりかねません。

2020年から世の中がコロナ禍となったことで、街には、どこからともなく「自粛警察」と呼ばれる、自主的に外出を取り締まる人が出現しました。当初は、県外ナンバーの車があったら、「出て行け」とペイントするようなこともありました。また、マスク着用が義務のようになり、2年半が経った今でも「マスク警察」と呼ばれる人がいて、つい最近も、62歳の男性が、マスクを着けていない小学生を殴って逮捕されたという事件がありました。

「マスクを着けよう」と言われている世の中で、仮にマスクを着けないことを「悪」だとしましょう。であれば、マスクを着けていなかった小学生は悪で、殴った62歳男性が「正義」ということになってしまいますよね。でも冷静に考えて、相手は幼い子供で、どう見ても悪いのは殴った62歳男性だし、殴ったのだから逮捕されるのも当然です。コロナに過剰に反応する人のことを「コロナ脳」と揶揄したりしているようですが、勘の良い方は何が言いたいかお分かりになるのではないでしょうか(笑)

そもそも、マスクをつけないことが「悪」なのか?という話ではあるのですが、当たり前のことが当たり前だと冷静に考えればわかることが、何故かわからなくなるのが「二項対立」の怖さです。

カルト化の裏には「二項対立」という仕掛けがあるもので、この数年は世界を巻き込む「二項対立」にハメられているように見えますが、自粛警察や今回の事件などは、まさにカルト化した過剰な正義感の怖さを象徴していると感じます。

そして、ここまでを踏まえて、2020年から起きているコロナ騒動をよくよく俯瞰して眺めてみると、実はカルト宗教が用いる手法とまったく同じやり方で、世界中の人々が二項対立で分断されて「カルト化」していることに気が付きます。特に日本人は良くも悪くも「お上に従順」な民族なので、あっという間に、この新しいカルト宗教にマインドコントロールされてしまいました。^^;

例え「正義」であっても、行き過ぎれば「悪」にもなる。人を守るものであれば「正義」と呼べるでしょうが、「二項対立」にハマってしまうと、往々にして手段と目的が転倒し、「正義」もカルト化してしまい、「正義」の名を冠した「悪」になってしまうということですね。

ここまで述べておいてなんですが、ふと「正義」の反対語を調べてみたら、「悪」ではなく「不義」なのだそうです。ご存知でしたか? 意味は「人として守るべき道に外れること。また、その行い」だそうです。ちなみに「正義」の意味は「人の道にかなっていて正しいこと」だそうで、「人間の社会行動の評価基準で、その違反に対し厳格な制裁を伴う規範」という意味もあるそうです。

なんと私自身、「正義と悪」という仕掛けられた「二項対立」にハマっていることに気付きました(笑)。「正しい」「悪い」という対立ではなく、「道にかなっているか、外れているか」というのが、正しい捉え方のようです。そう考えれば、単純な「二項対立」ではなく、捉え方次第で大きな幅があります。そして重要なのは、何を持って正しいとするのかという「基準」です。正しさの基準は、時代や地域によって変わるもので、絶対的なものではありません

 

「正義」に絶対的な基準はない

それは、ONE PIECEでも描かれています。

「海賊が悪!!?海軍が正義!!? そんなものはいくらでも塗り替えられてきた…!!!
 正義が勝つって!? そりゃあそうだろ 勝者だけが正義だ!!!!

これは、頂上戦争編でドフラミンゴが叫ぶシーンです。

ONE PIECE』の世界では、海軍が「正義」で海賊が「悪」として描かれています。しかし、実際の歴史を見ても言えることですが、「正義」の基準(ルール・法律・価値)を作るのは勝者であり、支配者です。『ONE PIECE』の世界においては、海軍側が支配しているため、「正義」は海軍にあり、従わない海賊が「悪」とされています。

面白いもので、一言で「正義」といっても、その海軍のトップである三大将がそれぞれ掲げる「正義」は違います。今や元帥となった赤犬サカズキは「徹底的な正義」、黄猿ボルサリーノは「どっちつかずの正義」、そして海軍を去った青雉クザンは「ダラけきった正義」というものです。

海軍では、すべての兵が背中に「正義」の二文字を背負っています。

しかし、その「正義」も一つではなく、人それぞれ違います。何より、大きな権力を持つ元の三大将が、それぞれ掲げる正義が違うと描くのも、さすがは尾田先生だなと感じます。物語としては、サカズキとクザンがぶつかり、サカズキが勝ったことで海軍元帥となり、負けたクザンは海軍を去りました。同じ「正義」であっても、ぶつかったり戦うことがあり、結局は勝った者の「正義」が基準になる、ということですね。正直、「正義」を突き詰めていっても、曖昧なものなのかもしれませんね。

海軍が「正義」だと言っても、海軍の中には腐った奴らもいて、「正義」を振りかざして恐怖で支配している者もいます。逆に、海賊にもいい奴らがいて、「悪」であるはずの海賊がナワバリにすることで、安全に暮らしている人たちもいます。

「正義」だ「悪」だと言っても、それは支配者によって作られた基準によるもので、その中身は大して変わらないのです。

それなのに、「正義」と「悪」に分かれて戦っている。それは、物語としてみれば面白く、当事者になればたまったものではなく、俯瞰してみればとても滑稽だったりします。喜劇王チャールズ・チャップリンが言った、「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」という真意は、こういうことなのでしょうね。彼は当時のナチスドイツの狂気(カルト化)を、自ら主演した映画を通して痛烈に批判したことで有名ですが、数十年も前に、すでに世界の闇を俯瞰し、作品を通して表現していたというのはさすがというべきですね。

 

「二項対立」に欠かせない「勧善懲悪」

「正義は勝つ」とはよく言ったもので、人は、「勧善懲悪」の作品を好みます。「勧善懲悪」というのも、「二項対立」を語る上では外せないテーマです。

ハリウッドのヒーローものを始めとして、悪者を正義が倒すという構図は、見ていて爽快だし、様々な名作に通ずる「神話の法則」というものもあります。「神話の法則」を簡単に説明すると、主人公が冒険に旅立ち、仲間を見つけ、様々な試練を乗り越えて、最終的に、自分の前に立ちはだかる最大の敵を倒して大団円を迎える、というものです。

ONE PIECE』にせよ『star wars』にせよ、世界を代表する名作も、基本的には「神話の法則」に則って物語が進んでいきます。わかっていても、心揺さぶられ、感動してしまうのが「神話の法則」と呼ばれる所以であり、基本的な構図は、「勧善懲悪」なものが多いといえます。なぜなら、わかりやすいからです。

 

『半沢直樹』『下町ロケット』

「勧善懲悪」と言えば、視聴率40%と話題になった『半沢直樹』や『下町ロケット』など、池井戸潤さんの作品が代表的です。

『半沢直樹』では、元銀行員だった池井戸さんの経験を生かし、銀行の闇が描かれています。

悪しき風習で、「上司のミスは部下の責任」というものがあり、ミスをなすり付けられた部下である半沢直樹が、上司の隠蔽や不正を暴き、「やられたらやり返す。倍返しだ!」と仕返しをしていきます。憎たらしい上司や悪者が、半沢によって不正を暴かれて追い込まれ、痛い目をみて土下座をする。最後には正義が勝つ姿は、溜まりに溜まった鬱憤を晴らされるようで、とても爽快です。悪いことをしたなら、罰せられるのも自業自得です。罰せられずにのさばっているのは、度し難いですよね。(でも、世の中そんな人が大勢いるのも事実です

『下町ロケット』では、ロケットを飛ばすことが夢である下町企業(佃製作所)が、大企業(帝国重工)と争い、様々な妨害工作を受けながらも、確固たる技術力で「バルブ」という一点のみで、ロケット事業に参加して、見事に夢を叶えていきます。中でも、「正義は我にありだ!」というセリフがありますが、正義と悪がとてもわかりやすく描かれます。悪い奴も「THE悪役」という感じで、憎たらしい役が多く、誰が悪役をやるか、ということも話題になります。

ある意味、池井戸作品は「最後は勝つ」ということがわかっているのでハラハラしながらも安心して見ていられます。勝つか負けるかを楽しむというより、「いかにしてこの苦境を乗り越えるのか」というのが、醍醐味と言えるかもしれません。

正義と悪が分かりやすく描かれるのが「勧善懲悪」の特徴ですが、見ていてスッキリはするものの、実際の世の中はそんなにわかりやすいものではないし、正直「風の時代」と言われている今の時代には、少し古臭く感じてしまうのは私たちだけではないはずです。

 

「風の時代」には、「勧善懲悪」はもう古い?

今の時代の主流は、わかりやすい「勧善懲悪」よりも、「それぞれの正義のぶつかり合い」という感じがします。

物語である以上、主人公視点でストーリーが展開していくので、主人公が正義として描かれることは当然です。しかし、敵にも敵なりの正義があり、名作と称される作品には、悪には悪の理由や背景が描かれることが多いです。

Re:ゼロから始める異世界生活』では、ペテルギウスという悪役がいますが、2期では、彼がいかにしてペテルギウスになったのかが描かれます。1期で我らがレムを蹂躙し、悪態の限りを尽くしたペテルギウスですが、彼の過去や背景を知ると、単純に憎たらしいとは見られなくなります。

before after


『鬼滅の刃』
では、炭治郎が鬼を倒していきますが、鬼も元は人間であり、炭治郎に倒される鬼は、いかにして鬼になったのかという背景が描かれます。そこには、とてつもない悲しみや不幸があり、炭治郎は、ただ鬼を倒すというよりも、鬼になるしかなかった悲しみを斬ることで、鬼も涙を流して死んでいきます。
鬼がただ悪役として描かれるのではなく、かつて人間だった者たちがいかにして鬼になったのか?という過去の不幸や背景を描いていることが、『鬼滅の刃』がここまでの人気作品になったのだと感じています。

古くは『北斗の拳』でも、聖帝サウザーという悪役が出てきますが、サウザーがいかにして非道な支配者になったのか。その過去には、南斗鳳凰拳を継ぐためには、自ら師を倒さなければならなかったのです。サウザーはとても心優しい青年であり、師を父のように慕っていましたが、その師を倒さなければならない。つまり、殺さなければならなかった。サウザーは「愛ゆえに」悲しみ、苦しみ、「愛ゆえに」人を愛することを悲観しました。サウザーは、「愛ゆえに」非道な支配者になったのです。

物語では、色んな描き方で「敵を倒す」ということが描かれます。ですが、その敵にも、止むに止まれぬ闇落ちするような理由があったりして、その背景を知れば、一概に責められないものがあります。まぁ、中には救いようのない人もいますけどね(^^;

「勧善懲悪」から「それぞれの正義」という構図に変わっても、主人公が成長していく姿や、強くなる姿が面白いのは確かです。

ただ、最近はバトルものも食傷気味で、ゆるい作品も楽しんでいます(笑)。『ゆるキャン△』『小林さんちのメイドラゴン』など、「ゆるアニメ」というジャンルも注目していますが、今回のテーマとはずれてしまうので、いずれ違うコラムで取り上げたいと思います。

 

今の時代に合った、オススメしたい名作

今回のテーマに合った中で、【道楽舎】として注目している作品が、『おいしい給食』『コンフィデンスマンJPです。

『おいしい給食』に関しては、以前にも取り上げているので、観たことがない方、コラムを読んだことがない方はこちらをご覧ください。

【道楽】は人間の本質(中編)「おいしい給食が語る『本質』」

『おいしい給食』は、給食を愛する甘利田先生と生徒の神野による「給食バトル」ではありますが、勝負であっても「二項対立的な勝負」ではありません。「給食」という道をいかに楽しく進んでいくかという「給食道」が描かれており、「二項対立」を離れています。

「給食」というテーマはありますが、「二項対立」にしなくても、こんなにも面白く、感動を生み出すことができるんだなぁと、この作品を観ると感じます。さすがは、【道楽判】を押した作品です(笑)

『コンフィデンスマンJPは、次のテーマにも通じてくるので、詳しく取り上げていきましょう。

 

『クロサギ』と『コンフィデンスマンJP』の大きな違い

2006年に、山Pこと山下智久さんと、ホマキこと堀北真希さんが出演していた、『クロサギ』というドラマが、今秋(10/21スタート)キンプリの平野紫耀さん主演で帰ってきました!

『クロサギ』とは、詐欺師(シロサギ)をカモにする詐欺師(クロサギ)を描いた物語で、当時とても楽しみに観ていて、主題歌の『抱いてセニョリータ』は、カラオケでよく歌ったものです(笑)。翌年には劇場版が描かれましたが、15年の時を経て、新作なのかリバイバルなのか、キャストを一新して描かれます。当時観たことのない若い方には、オススメのドラマです。

(2006年度版の、可愛すぎる堀北真希さんは必見です!!)

『クロサギ』も、悪い奴を倒す「勧善懲悪」ではありますが、「悪を倒すために悪をなす」という、単純な「勧善懲悪」ではありません。いわゆるダークヒーローと言えますが、2006年当時にはあまりなかった作品で、センセーショナルだったのを覚えています。
そういう意味では、前作を観たことがなく新作を初めて観る方には、当時ほどの衝撃はないかもしれませんね。

【道楽舎】が激推ししている『コンフィデンスマンJPも、『クロサギ』と同じく、詐欺師を描いています。

一つ断っておきますが、我々は決して詐欺を推奨しているわけではありませんので(笑)。まぁ、この世界は詐欺まがいのようなものは腐るほどありますが…(^^;。『渡る世間は鬼ばかり』どころか、『渡る世間は詐欺ばかり』かもしれません(笑)

それは置いといて… 同じ詐欺を扱うドラマであっても、『クロサギ』『コンフィデンスマンJPには大きな違いがあります。

どちらも悪者を詐欺にかける、「悪を持って悪を討つ」というようなストーリーですが、両者は似て非なるものがあります。 一つ目の違いは、『復讐』です。

『クロサギ』は、主人公の黒崎による「復讐劇」です。黒崎が高校生の頃、父親が詐欺に遭ったことで、一家心中しようとしましたが、黒崎だけ生き残りました。いわば、詐欺師(シロサギ)に家族を奪われたのです。「全てのシロサギは、俺が喰ってやる!」というセリフがあるのですが、家族を奪われた復讐心から、シロサギのみを狙って詐欺を仕掛けるのです。

対して、『コンフィデンスマンJP』はというと、ダー子(長澤まさみ)、ボクちゃん(東出昌大)、リチャード(小日向文世)という3人の信用詐欺師(コンフィデンスマン)が、悪事を働くお魚ちゃんをターゲットに、子猫ちゃん(アルバイト)を使って釣り上げ、壮大な詐欺を仕掛けて大金を騙し取る、という物語です。「悪い奴を騙す」という点では『クロサギ』と同じですが、『コンフィデンスマンJP』の場合は、復讐心から詐欺を働くのではなく、ある意味、真剣に「楽しむ」為に騙していると言えます。ジャンルの違いもありますが、『クロサギ』は、どこか悲壮感が漂っているのですが、『コンフィデンスマンJP』には爽快感があるという感じがあります。

そして、二つ目の大きな違いは、「騙される方は、不幸にはなっていない」ということです。中には、騙されたことに感謝をするお魚ちゃんもいたほどです。面白いことに主人公たちは、騙して大金を手にしても、結果的に経費で赤字、なんてこともあったりします(笑)。お金を稼ぐ為でも、悪い奴を懲らしめる為でもなく、自分たちが楽しむために、被害に遭った人たちを助けることを目的(口実)にしています。その為に、お魚ちゃんにお金を払ってもらっている「スポンサー」になってもらっているというわけです。

復讐による詐欺の場合、相手は破滅して終わってしまいますが、何よりも大きな違いは、騙す相手に対して憎しみがないということです。『クロサギ』は、父を騙し家族を奪ったシロサギを全て喰うという「憎しみ」が原動力となっており、騙す相手を個人的に憎んではいなくても、シロサギという存在を憎んでいます。結果的に、騙された人の為にお金を取り返して、助けにはなっていますが、黒崎にとって騙された人は情報提供者でしかなく、困った人を助けるために詐欺をしているわけではありません。自分が楽しむ為だけに人を騙しているのなら、ただの悪者でサイコパスかもしれませんが(^^;

『コンフィデンスマンJP』の3人が、いかにして詐欺師になったのかはまだ明確には描かれていないので、なぜ詐欺を始めたのかはわかりませんが、少なくとも、『クロサギ』のような憎しみや復讐の匂いは感じません。復讐を果たしても幸せにはならない、なんて綺麗事を言うつもりはありませんが、『クロサギ』のような生き方よりも、『コンフィデンスマンJP』のような生き方のほうが、楽しく生きられるし、結果的に悪者まで好転させてしまうかもしれません。復讐の為にしているのであれば、相手を破滅させて終わりでしょうし、復讐を果たしたら、生きる目的も失います。【道楽家】としては、どちらが道中を楽しんで生きる道なのかは一目瞭然です。

何度も言いますが、楽しむためとはいえ、詐欺を推奨しているわけではありませんからね(^^;

 

「二項対立」の裏にある思惑

「二項対立」はかくも厄介なものではありますが、実は、この世界には至る所に仕掛けられています。過去のコラムでも、「労働社会の罠」として述べていますが、そもそもこの社会の成り立ちから「二項対立」になるよう仕組まれているので、残念ながらそうなることが当たり前だと言えます。

労働社会の表と裏、二項対立の罠(働き方三部作・中編)

学校のテストでは順位付けされ、偏差値を付けられて他者と比較させられます。受験という競争を強いられ、不合格の恐怖を受けながら、合格する為だけの勉強をさせられます。就職する際には、内定を貰うために、少しでも良く見られようと自己PRをして、いざ入社できたとしても、期待の新人と過大評価され、余計に苦しむこともあります。また、どんな会社から内定をもらったか、どれだけ内定をもらったかということで優劣を付けられたりもします。入社した後も、成績の順位をつけられ、出世レースによって誰が先に出世したか、出世することに価値があり、出世できない奴はダメな社員、給料泥棒と蔑まれて、心を病む人も多くいます。

スポーツに置き換えれば、サッカーをやっていたけど、プロにはなれず、夢を諦めた人が、プロ選手に夢を託し、サポーターとして応援する。勝てば自分も勝ったかのように喜び、負けたら悔しがる。

そういったループが出来上がっているのです。

ただ、時代も変わりつつあり、「風の時代」なんて言われたりしていますが、次第に労働社会のレールから外れてきている人も増えているのではないでしょうか。

そのポイントは、「二項対立思考から抜けられているか」です。

「二項対立」とは、平たく言えば、支配者にとって、民衆を支配するのにとても都合のいいツールだということです。日頃から民衆が政府や支配者層に抱いている不平不満や抑圧のエネルギーを、民衆を2つに分断し互いに争わせることによって、自分達へその矛先が向かうのを防いでいるという分割統治(ディバイドアンドコンカー)の一面と、経済的な意味では、様々な分野で熱狂的なファンが増えることで大きな経済効果が生まれます。その業界が白熱(カルト化)していくことで、そこで動く金額もまた大きくなるというものです。だからこそ、民衆が「二項対立」で争ってくれることは、仕掛けた側にはとても都合がよく、様々なウマ味があるのです。

 

表には出てこない、「二項対立」の外にいる仕掛け人

終盤にきて、やっとここが中編の一番のポイントとなりますが(笑)、「二項対立」は誰にとって都合がいいのでしょうか?

「二項対立」の最も恐ろしいところは、「二項対立」を意図的に仕掛ける存在がいるということ、その思惑にあります。スポーツにせよ「二項対立」には、熱狂するファンの輪ができます。盛り上がる、熱中するというのは、ファンにとっては喜ばしいことです。価値を生み出すプレイヤーも注目を浴びることができます。それ自体は、悪いことどころか、良いことだと言えるでしょう。良い面はありますが、客観的に見たら、狙い通りに多くの人が集まりお金が動く、意図された思惑もあります。

そうです。二項対立は「儲かる」のです。

つまり、そんなプレイヤーやファンの純粋な思いを利用する存在がいるということです。

「二項対立」に引き寄せられた人に、悪気や悪意はないでしょう。それこそ宗教においても、純粋に信じている人は、心優しい善人が多いと思います。心から人の幸せを願い、神を信じることで幸せになれると本当に思い込んでいるから、たくさんお布施もするし、同じ仲間を増やすために、「今、幸せですか?」とピンポンを押したりするわけです(笑)

まぁそれも、噂ではノルマがあるなんて話もあるそうですが(笑)、信者の方は善意や使命感でやっている方が多いでしょう。恐ろしいのは、善意を持った信者ではなく、その信者の善意を利用する存在がいるということです。(別に宗教自体を悪くいうつもりはありませんよ! ただ、新興宗教を信じたことによって、多くの人が破産し、家庭が崩壊し、家族がバラバラになり、長い間苦しんでいる人たちがいるのも事実です)

先程「二項対立は儲かる」と述べましたが、もっと言ってしまいましょう…

「ある人たち」からすれば、人々が平和で幸福で満たされた暮らしをているよりも、人々が貧しく、お互いに争い、全体的に不幸であったほうが「より儲かる」のです。だからこそ、「あなたはこんな問題を抱えていますね」「あなたはこんなに不幸ですね」「将来が心配ですね」「そんな不幸なあなたには、これが必要です!」と、メディアやコマーシャリズムを使い、あの手この手、あらゆる手法を駆使して私達を扇動してくるのです。なので、彼らは基本的に私達を「平和」で「豊か」で「幸福」にしようなどとは思っていないのです。

上記の「今、幸せですか?」の本当の深い意味がおわかりになりましたでしょうか…

ちなみに、儲かるという字は「信者」と書きますよね……?

 

「二項対立」を仕掛ける「黒幕」の思惑

先に述べた『クロサギ』でも、黒崎が詐欺師になった裏には、桂木という黒幕がいます。黒崎は、親が詐欺に遭ったことで、騙した詐欺師はもちろん、詐欺師そのものを許せなくて、自身も詐欺師専門の詐欺師になりました。黒崎の親を直接騙した春日と御木本という詐欺師が、親の仇ではありますが、その奥にいて図を引いたのは、他ならぬ、黒崎を育て情報を売っている桂木だったわけです。


クロサギ2006

クロサギ2022

黒崎にとっては全ての詐欺師が敵なので、桂木をも利用しながら、いずれ喰うとも言っていますが、そもそも黒崎を生み出したのは、意図せずしてか桂木であり、思惑を持って対象者を紹介したり情報を売っているわけです。全ては桂木の手のひらの上で行われているのです。もしかしたら、黒崎を生み出したのも、どうすれば詐欺師(復讐者)を生み出せるかを分かった上で、見込みのあった黒崎家の息子を狙ったのかもしれませんね・・・。

わかった上で乗せられるならまだしも、実はいい人や憧れの人が、影の黒幕だったなんてことも大いにあることです。大抵世の中の詐欺師は「善意の人の姿」で現れますからね。

ドラマとしてみれば、誰が黒幕でどんな思惑があるのかはわかりやすいですが、実際には簡単にはわからないものです。ドラマであっても、登場している人にとっては、桂木の存在はほとんど知られていません。これを現実で見てみれば、「え?この人が黒幕のなの!?」と思うのかもしれません。ただ、『クロサギ』にしても『コンフィデンスマンJP』にしても、こういった世界の仕組みがわかっていて、思うところがあるからこそ、作品として描かれるのでしょうね。

 

「二項対立」の行き着く先…「戦争」

「二項対立」の行き着く先には、「戦争」というものがあります。それぞれの国の正義を背負い、武器を持ち、兵器を使って敵を攻撃します。現在も世界の色んな所で、大なり小なり戦争が起こっています。時代が変わった今、武器によって相手を攻撃するだけが戦争ではなく、サイバー戦争や認知戦争など、見えない戦争もあります。一般的に戦争は、あたかも国同士の対立による自然発生的な悲劇とされていますが、果たして本当にそうなのでしょうか?

もしかしたら、この戦争を意図的な「思惑」をもって仕掛けてる存在や黒幕がいるのかもしれません。先程も述べましたが、二項対立はとても「儲かる」のです。そして、その極地とも言える戦争は、実は「莫大に儲かる」のです…。(これ以上は言えません~~^^;)

 

戦争の悲惨さ

普通、人を殺したり、銃で撃てば犯罪ですが、戦争ではその常識は通用しません。実際に戦場で敵と相対せば、相手に向かって銃を撃つのをためらうことは自分や仲間の死を意味します。それは「戦争」だからです。戦場で目の前に敵が現れれば、ためらいなく撃たなければなりません。もし、その相手がどんなに素晴らしい人であっても。愛する家族や生まれたばかりの子供がいたり、虫も殺せないような優しい人であっても。「戦争」という舞台の上で出会ってしまったら、お互いに殺し合うしかありません。それが戦争だからです。出会う場所やタイミングが違えば、唯一無二の親友になっていた可能性だってあるかもしれません。

上記で述べていますが、敵の背景を知ることで、「悪」であったとしても理解することができ、許すこともできるかもしれません。しかし、それをされては「戦争」が成り立ちません。だから、先の大戦でも情報統制が徹底されたのです。敵を絶対に許せない「悪」に仕立てないと、殺すことなんてできないでしょう。「戦争」は、国家間や世界規模で仕掛けられた「二項対立」であり、その中で個人の正義や思いは、ほぼ意味を持たないでしょう。仮に、敵と打ちとけ合い、自分の正義を貫いて殺さなかったとしても、別の敵に撃たれたり、味方から裏切り者として粛清されてしまうかもしれません。

戦争という異常な「二項対立」に巻き込まれたら、人間の良心や常識は通用せず、相手を殺さなければ自分が死ぬという極限状態になることでしょう。でも、よくよく冷静に考えてみてください。それが本当に自分達の望んだ状況なのでしょうか?本当に好き好んで人殺しを望む人間なんて、頭がイカれた精神異常者くらいなものです。我々民衆は時として、自分達がまったく望んでもいない狂った状況に気づかないうちに放り込まれることが実際にあるのです。ちゃんと「目を覚まして」いないと、我々は上記のような「精神異常者」に、自分達の人生を好き勝手に凌辱されてしまいます。

もちろん、戦争は無いに越したことはありませんが、もし起こってしまったのなら、私たちにできることは、愚かな人類の歴史から学ぶことしかありません。

 

「二項対立」の終着点は、人類滅亡?

また、世の中では今、ウクライナ侵攻が問題とされていますが、これも、ロシアとウクライナの「二項対立」だといえます。ここでは、どちらが正義かを議論するつもりはありません。

ロシアは、「ツァーリボンバ」という最大威力を持つ核爆弾を所有しており、核の使用が懸念されています。また、「ポセイドン」という原子核魚雷という新兵器もあるそうで、使用されたら500mもの放射能津波が起こるそうで、「使ったら世界が終わる」とも言われているそうです・・・。仮にロシアが正義の側だとしても、もしツァーリボンバやポセイドンを使用すれば、人類存亡の危機となり、正義も悪もなくなるでしょう。「二項対立」の行き着く先は、人類滅亡なのかもしれません・・・。

ツァーリボンバ

ポセイドン

これが、それぞれの核兵器だそうですが、見かけたら近寄らないでくださいね(無意味w)

『進撃の巨人』では、戦争も一つのテーマとして描かれていますが、注目したいポイントがあり、後編のテーマに繋がってくるので、学ぶべきポイントとして、後編で詳しく取り上げてまいります。

 

中編のまとめ

今回のコラムは、もしかしたら触れてはいけない領域に踏み込んでしまったかもしれません・・・(^^;

「二項対立」についてさらに詳しく、深いところまで入ってしまったのではないでしょうか。「二項対立」によってカルト化すれば、二極化して最後には戦争を生み出すことにもなってしまう恐ろしいものだということがわかっていただけたかと思います。

そして、新たに始まったドラマ『クロサギ』も取り上げましたが、「二項対立」の裏には思惑があり、仕掛ける黒幕のような存在がいる…のかもしれないということも述べてきました。かなり都合の悪い話ではないかと思うので、もし次のコラムが配信されなかったら、我々は消されたと思ってください(笑)。もし消されたのだとしたら、それは核心を突いている、ということです。こう言っておけば、消されないかなぁと思い、予防線を張っておきましたが、一応言っておきます(笑)

信じるか信じないかは、あなた次第です!!

ということで・・・自分の信じたことや、好きなことに熱中するのはいいですが、ハマりすぎて熱狂してカルト化はしないよう気をつけたいですね。『ONE PIECE』を例にもしましたが、自分自身に「正義」を掲げるのは構いませんが、人それぞれに掲げる「正義」があり、それを他人に向けた時、押し付けた時、合わなければ敵同士で争う事になる。抽象度を上げて俯瞰すれば、「正義」も「悪」も、大差はないとも述べました。

前編より、絶望が深まった中編になったのではないかと思いますが、後編ではいよいよ、「パンドラの箱」に残った「希望」を放ちたいと思います。最後までお付き合いくださる方への「希望」になることを願っております。

画像出典:『ONE PIECE』/尾田栄一郎 集英社
『北斗の拳』/武論尊・原哲夫 集英社

 
 
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