確定しない不安定な世の中
最近は、どうしてもコロナ関連の話題になってしまいますが、コロナ禍はもう既にただの感染症ではありません。経済的な痛手が大きく、今後の状況次第では、記憶に新しいリーマンショックや、昭和のオイルショックを超え、世界恐慌クラスの危機になるかもしれません。間違いなく、来年の教科書にも載り、後世にも語られ、歴史に刻まれるであろう事態になっています。
感染症としては新型コロナは過去の世界的感染症が流行した時代よりも、科学が発達し、人口も激増した現代において、猛威を振るう存在となっています。
もはや、特定の誰が被害者というわけではなく、人類が向き合う相手と言えるでしょう。
人によっては、「憎い敵」に映る人もいるだろうし、恐怖の対象に映る人もいるかと思います。
道楽舎としては、物語の視点で、役割としての「敵」とは見ていても、それは倒すべき憎き敵だとか、恐怖の対象とは見てはいません。
そして、こと政府の対応に対しては、批判が多く、入国規制や緊急事態宣言の対応が遅いとか、休校措置が急で丸投げ過ぎだとか、小さいマスク2枚を466億円かけて配る意味とか、10万円支給についての後手後手感とか…
え?十分批判してるって?
いえいえ、事実を申し上げているだけです(笑)。でも、世界規模で猛威を振るっている状態で、日本が現時点でアメリカやイタリアのように感染爆発していないという事実もあります。
ただ、休校措置や緊急事態宣言も、対応の仕方によって生活に大きな影響が出ていることも事実です。それでも、政府への評価もまだ確定することはできないし、コロナ禍がいつ収束するのか、確定することもできません。
少なくとも、いつ収束するかが確定したら、少しは安心するかもしれません。でも、もし「収束するのは30年後」と言われたら、余計に苦しみが増すのではないでしょうか?それに、また新たな問題が起こることだって十分あり得ます。確定すればってもんでもありません。
不確定な状態は、安定しないから「不安」になります。確定させたかったり、答えを求めるのは、生存の為に危険を回避したい人間の本能や、答えを要求する受験教育によるものなのかもしれません。でも、物事は意外と、確定しなかったりわからない方が良いこともあります。
道楽舎としては、物事を「確定」させることよりも、「不確定」の状態でも生き抜いていけることが大事だと考え、発信してまいります。
二項対立という罠
人間は、何かと白黒つけたがる生き物です。そして、敵味方、善と悪、美と醜といった二項対立にしたがる傾向があります。それは、その方が楽だからで、考えなくて済むからです。例えば、敵と味方が確定していれば、それに従えばいいし、相手がなぜ敵なのか?と考えずに倒せばいいのです。
数々の物語では、主人公が敵を倒す展開が描かれます。でも、その過程で敵の背景も描かれ、なぜ敵なのか、なぜ戦うのかを向き合ったりします。神アニメなどではよく描かれますが、例え敵として相手を倒しても、敵が後から味方になるという、胸熱な展開があります。スポーツものでは、敵だった相手と力を合わせて、さらなる強敵と対戦したりもしますよね。
そのように、敵が味方になることもあるし、敵であった「おかげ」で成長もし、大きく変化したりするものです。そして、敵が大きければ大きいほど、倒した時のカタルシスも大きくなります。
このように、二項対立を超えた所にこそ、感動はあるのではないでしょうか?
しかしこの世界では、二項対立に「確定」することはまずありません。確定したとしても、後から変わってしまったり、覆ることはいくらでもあります。なぜならこの世界は常に変化していくからです。実は確定しないようにできているのに、人間は確定したがるようにできているのです。
例えば、恋愛で言えば、付き合えたらもちろん嬉しいですが、相手が自分を好きかどうかわからなかったり、肩が触れるくらいでドキドキするような、2人の関係が「不確定」の状態の方が、甘酸っぱくて、キュンとしたりしますよね?『逃げるは恥だが役に立つ』が大人気になったのも、まさに確定しそうでしない、どうなるかわからないという「不確定」の状態だからこそ面白いのです。確定を急ぐのではなくて、いかに不確定状態を楽しめるかが、物語を面白くする鍵になるのです。
「不確定」であることが二項対立の罠を抜ける為のポイントだと思います。そのためにも不確定状態を楽しむことが必要であり、それは「道楽」に通じるものがあります。次回のコラムでは、今回の続きと、更に掘り下げてお送りしていきたいと思います。
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