「不確定」を楽しみ、バランスを取ることこそ道楽なり

前回は「コロナ禍を"おかげ"にして、不確定を楽しもう!」というコラムを配信しました。

コロナ禍を"おかげ"にして、不確定を楽しもう!

この世界はそもそも不確定なもので、今回のコロナ禍もいつ収束するか確定することはできない。だったら、不確定の状態をいかに楽しむかが、乗り越えるポイントだと述べました。

そして、「不確定」と「バランス」についても触れましたが、「不確定」と「バランス」の関係は「道楽」に通じるものがあるので、掘り下げていきたいと思います。

不確定を楽しむのが道楽

極論ですが、漫画や映画を見るときに、初めからその結末がわかっていたら、その物語を観る意味はありません。それと同じで、人生が一つの物語なのだとして、人が生まれてから死ぬことも、どのような人生になるかが全て確定していたら、生まれてくる意味はないのかもしれません。その人生は唯々すでに知っていることをなぞるだけの退屈なものになってしまいます。

人生とは、生まれてから「死」という確定まで、何が起こるかわからない不確定な物語を楽しむものなのではないでしょうか?

つまり、生きることは、死ぬまでの【完全には予想することが出来ない】道中を楽しむ、「道楽」そのものだということです。

不確定と量子論

元々この世界は不確定なもので、いつ何時何が起こるかはわかりません。

これを量子力学では「不確定性原理」といって、我々がこの世界を観察するまでは確定しているものはなく、可能性の波を漂っている状態(波動関数)で、人間が認識した瞬間に可能性の波は集束し粒子となりその姿を現すとも言われています。(この世界は確率論でしか表せない=未来を完全に予測することはできない)

20世紀初頭にこの考えが出てきた頃、多くの人はそのことを受け入れられませんでした。

当時は、有名なアインシュタインでさえ、

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「バカげてる、神はサイコロ遊びをしない!」

と量子論を批判しました。

あのアインシュタインでさえ受け入れ難いものを、普通の人がすんなりと受け入れられるわけないですよね(笑)

もっと極端なこと言えば、そのサイコロ自体も【立方形のサイコロ】ではなく、【球形のサイコロ】で、確定したと思った次の瞬間には、もう違う目に変化しているような流動的なものかもしれません。

実は、お釈迦様は、「諸行無常」「諸法無我」といって、すでに2600年前にこのことを説いていました。

もちろん、全てを解明する新しい「科学理論(統一理論)」が出来てくれば、この考えは覆るかもしれませんが、現時点では「この世界は『不確定』なものである」というのが現実的な観測結果です。

というか、この世界は「不確定」であることで、絶妙に「バランスを取る」ように出来ているとも言えますよね。

まあ、厳密で難しいことは専門家に任せるとして(笑)、僕ら一般人がここで考えるべきことは、世界がそのようになってるなら、それを使って自分はどうするのか?ということだと思うんですよね。

不確定な世界にこそ、必要なバランスと道楽

なので、どうせ世界は不確定なものなんだから、「イマココ」と向き合い、「なるようにする」という姿勢で、「せいをおかげに」していこうと、道楽舎では発信しています。

二度とない今を生きること「道楽的イマココ」

人間は本能的に確定したがる生き物なので、確定して安心したいのはわかりますが、「不確定な状態」を受け入れて面白がるのが道楽であり、人生の楽しみ方だと思っております。

コロナ禍は、そういうことと向き合わせてくれる象徴的な出来事なのかもしれませんね。

夫婦喧嘩の例

「バランス」というものに関して、夫婦喧嘩を例にとってみましょう。

夫婦喧嘩は、些細なことから始まってしまうものです。
やれ掃除してないだ、やれ洗濯物が溜まっているだ、洗い物くらいしろや!だの・・・。今は夫婦共働きの家庭が多く、「男は仕事をして女は家庭を守る」なんて、もはや化石のような考え方です。なのに、家事の比重は女性の方が高いとされがちなのではないでしょうか?

もちろんそれでは関係が成り立たないので、ルールを決めたりします。

例えば、ざっくりと

妻:ご飯を作る、洗濯
夫:洗い物、掃除、ゴミ出し

というように分けるとします。
お互いの得意不得意を補い合い、バランスよく分けたとしましょう。

家事は生活をする以上必要なことなので、役割を決めることは大事なことではありますが、このようにやるべきことを「確定」し過ぎてしてしまうと、やることが当然で、やらないことは罪になってしまいます
「役割だから」と、ご飯を作ることは「当たり前」になってしまうでしょう。逆に、掃除していなかったりできてない所とかがあれば、できないないことに目が向いてイライラしたり責めてしまいます。それが重なれば夫婦喧嘩に発展し、行き過ぎれば離婚ということもあり得ます。

人間は楽をしたがる生き物なので、ルールがなければ手を抜いてしまうだろうし、こういうことは、一方がルールを守って、一方がルーズ、ということがよくあります…。お互いの努力や協力が必要ですよね(^^;

新婚MAXの例

恥ずかしながら、新婚のMAXを例にとります(笑)

「新婚なんてラブラブだからアテになんない!」という声が聞こえてきそうです。まぁ、間違いではないかもしれませんが(笑)、やはりそれなりにはありますよ、それなりに(笑)

うちの場合は、明確で厳密なルールは作らず、ぼんやりとしたルールがあります。食事は半々、洗濯は妻、掃除は私という感じです。あえて確定させないぼんやりルールなので、洗濯や掃除が多少できていなくても、気にはしても怒るまではいきません。子供がいたら別かもしれませんが。

食事に関しても、特に今はお互いずっと家にいるので、一緒に作ったり、交互に作ったりしています。でも、どちらかが忙しかったり疲れていたりしたら、協力しながら、お互いができることをやるようにしています。ご飯を作れなかった分、お風呂を洗ったり、マッサージをしたり。そうやって、ルール以外のことで上手に調整を取ったりもします

MAX家の場合は、寛大な妻のおかげで成り立っているということもありますが(笑)、二人の相性やバランスが取れているということが大きいのかもしれません。

この世界はバランスで成り立っている

MAX家の例を出しましたが、明確なルールを作らないようにすることで、相手を責めたり否定しないようにしたり、できなかった時は、代わりのことをしたりしてバランスを取るようにしています。

大事なのは、確定させないことではなく、全確定せず【半確定?】というくらいの不確定状態がいいということです。そして、バランスを取ることです。

不確定の世界を、バランスを取るようにあっちに行ったりこっちに行ったり、道草しながら進んでいくのが「道楽」です。

道楽家のすゝめ

どうなっていくかわからないからこそ、上手に変化に対応しながら、今という瞬間を大事にしていきたいですね!!

 

 

ABOUTこの記事をかいた人

道中を楽しむ道楽家として人生を謳歌し、自分にしか出せない価値を生み出す! そのためのきっかけ・環境をつくるのが`道楽舎` 思うがまま自由に、本当の自分で生きていく。 道中に転がる大切なものを見つけ、欲しいものも手に入れよう!