人はなぜ働くのか?「あたり前」に仕組まれた罠(働き方三部作・前編)

人はなぜ働くのか?「あたり前」に仕組まれた罠

年が明けて、半年ぶりのコラムの投稿をしましたが、勢いがあるうちに、新年第2弾のコラムを配信します(笑)

前回のコラムの後半で取り上げた内容で、もっと掘り下げたいテーマがあり、「働く」ことそのものについて考えていきたいと思います。

死という結果の前に、生きるという道中を楽しむしかない(by マトリックス)

実は、コラムを作成していく上で、大ボリュームになってしまったので、三部作でお送りしていきます(^^;

 

働くことがあたり前の世の中

「あ~、働きたくね~」

って、ぶっちゃけ言いたいですよね~(笑)

自宅で独り言ならまだしも、会社で言おうものなら、上司に呼び出されて「社会人としての自覚が足らん!鍛え直してやる!」と、面倒なことになるのは目に見えています(笑)

また、男性にしてみたら、彼女や奥様に聞かれたとなれば、ケンカになったり不安にさせて、場合によっては別れてしまうこともあります。親に聞かれたら、心配をかけることもあるでしょう。

通常は、大学3年の秋になると、一斉に就職活動が始まります。3年生のうちに、早々と内定を取って、余裕で残りの大学生活を過ごす人もいれば、私MAXのように、大学卒業間際になって、ギリギリ内定を取り、ギリギリ卒業もできたような人もいることと思います。猛勉強して、喜多のように国家公務員になる人もいるでしょう。カミィのように「こんな所行ってられっか~!」と、大学をドロップアウトして、ミュージシャンになる奇特な人もいるでしょう(笑)

どういう経路であれ、様々な進路で学生を終えると、ほとんどの人が、社会人になって何かしらの仕事をしていると思います。

「社会人になったら仕事をする」

これは、至極当たり前のことで、疑問の余地はないかもしれません。

ですが、本当にそうなのでしょうか…?

 

変化する働き方

従来の働き方

昭和の高度経済成長期で、「仕事が人生の価値」という時代ならまだしも、ネットがあたり前になり、多様性が求められ、「働き方改革」などという事が叫ばれている令和の時代において、社会の在り方や会社の在り方、働き方というものも随分と変わってきていますし、今後はもっと変わっていくはずです。既に、AI(人工知能)の誕生で、人の代わりにAIが任される仕事も増えてきています。こちらも今後は更に増えていくでしょう。

そうなった時、従来の価値観で働いていても通用するのでしょうか?そもそも、幸せに生きられるのでしょうか?

今や昔ですが、以前は「終身雇用制度」というものがありました。多くの会社には、従業員を定年を迎えるまで雇用するという、今では考えられない夢のような制度があった時代がありました。しかし今となっては、10年後に残っている会社は、1割にも満たないと言われる寒い時代です。そんな状態で、「終身雇用制度」が成り立つ訳がありません。当時は、大企業に勤めさえすれば一生安泰と言われていたほどです。もちろん、今に比べれば時代の流れが早くなく、変化も少なかったので、それだけ安定していたということです。

昭和から平成にかけての時代は、いい大学を出て大企業に勤めたり、官僚キャリア組として国家公務員になることがステータスであり勝ち組で、所謂「肩書き」がモノをいう時代でもありました。今でもその名残はまだ根強くありますが、以前と比べて、労働者として大企業や公務員として勤めるよりも、自分の可能性を求め、独立して起業家を目指す人も年々増えています。

 

視聴率を例にしてみる

テレビの視聴率を見ても、以前は視聴率50%以上という、異常な数字を叩き出す番組がありました。これは国民の半分以上が観たという計算になります。今では、よっぽどのことがない限り、それだけの視聴率を出すことは、ほぼ不可能と言っていいでしょう。

では、なぜそんなに高視聴率を出せたのでしょうか?それは、他にコンテンツがなかったからです。競合するテレビ番組が少なく、そもそもテレビかラジオくらいしか娯楽がない時代のことです。それも今となっては、「テレビの時代は終わった」と言われるほどテレビ離れが進み、ネットフリックスなどのサブスク配信や、Youtubeといった面白いコンテンツが数多くあり、選択肢は無数に増えました。

テレビ局の予定する放送に合わせるよりも、自分のライフスタイルに合わせて観たいものを観る。こういった状態で、視聴率50%なんて、まずありえないでしょう。これを仕事に置き換えて言うなら、職業選択の数が多くなって、会社の為に生きるのではなく、自分がより良く生きる為に会社を利用する、という時代になってきていると言えるでしょう。

何が言いたいかというと、「会社(組織・体制)の為に生きる時代から、個人の為に生きる時代になった」ということです。

 

今は時代の転換期

現在、いろんな界隈で「地の時代から風の時代になった」と言われていますが、今の時期は「時代の転換期」です。価値が変わりゆく過渡期には、古い価値観と新しい価値観が入り混じり、混沌とするものです。

風の時代に道楽舎①「無駄のダムを創ろう!」

古い価値観に生きる者にとっては、自分の地位を守る為に抗うでしょう。新しい価値観に生きる者にとっては、己の生き筋を立てる為に様々な発信や行動をすることでしょう

歴史を見ても、それは何度となく繰り広げられてきました。

幕末が好きな方はよくわかると思いますが、日本を巡って、アメリカやイギリス、フランス、ロシアが介入してきました。日本国内でも、尊王攘夷派や佐幕派、公武合体派など、様々な派閥や思惑が複雑に絡み合っていました。流れによって勢力が変わり、敵だったものが突然味方となり、味方だったものが突然敵となって、命のやり取りをしていました。

坂本龍馬が暗殺されたのも、その流れに巻き込まれたからでしょう。(諸説あり)

結局は、薩長同盟から倒幕の流れが生まれ、明治政府が誕生しました。剣の時代は終わり、侍はその地位を失い、その後は新旧紙幣でお馴染みの「福沢諭吉」や「渋沢栄一」、三井三菱住友の財閥系事業家、所謂「そろばんを持った商人」の時代となりました。

黒船が来航して、わずか15年で日本は大きく変わったのです。

形は違えど、今は世界規模で明治維新のような変化が起こっているのかもしれません。

 

新しい価値観とは「浮動票」のようなもの

そんな転換期において、新しい価値観で生きようとしているのに、古い価値観を無理やり強いられたら、うまくいかないのは当然です。現状は依然として、体制や会社の在り方は従来の価値観が強く残っていると感じています。残念ながら、新しい価値観で生きようとする人は、まだまだ少数派なのかもしれません。

選挙でも、「浮動票」という言葉がありますが、実は、一番多いのは「浮動票」だと言われています。一番多く得票があれば与党になりますが、実質「浮動票」が一番多いのなら、本当の意味で与党はないのかもしれませんね(笑)

まだまだ、今の時代において、新しい価値観はこの「浮動票」のようなものなのかもしれません。「サイレントマジョリティ」という歌もありますが、大衆の声なき声、世に出ていない隠れた声の方が、実は多数派だったりします。これは日本の社会が、良くも悪くも昔から「お上に従う」「長いものには巻かれろ」のような、本当に言いたいことは隠しておかないといけないという、ムラ的な同調圧力が強い社会であったからとも言えるでしょう。


今の世の中、なぜか些細なことでも「謎の正義」を振りかざした〇〇警察がどこからともなく出現し、ヒステリックに煽りたてるので、なかなか正直に本音も言えません。「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ~♩ポイズン🎵」と歌われたのも、23年前……

…23年経っても大して変わっていないどころか、例の「〇〇○騒動」が抱える違和感に対しても、まるでカルト宗教のような偏狂的教義がメディアによって布教され、それを無抵抗で盲目的に信じる信者達が町中に溢れてかえっているような、とても奇妙で気持ち悪い同調圧力によって、益々言いたいことが言えない世の中になってきているので、もしかしたら、状況はもっと悪化(共産主義化・全体主義化)しているかもしれません…(^^;

きっと、かつての第二次大戦(大東亜戦争)の時代も、民衆はこんな感じの集団ヒステリーにまんまと乗せられたんだろうなぁ~と、あらためて今が、形を変えた「戦時下」であると強く認識しているところです。

そして現在、「サイレントマジョリティの声なき声」を代弁するような存在達が、「オンラインサロン」を作ったり、SNS」を通じでコミュニティを作ったり、「ユーチューバー」になったり、自ら会社を立ち上げる「起業家」になったりしています。まだ少数ではありますが、道楽舎もこのような新しい価値観を提示するコミュニティの一つでもあります。

こういった「隠れた浮動票」の中に、これから時代の中心になるような価値観が胎動しているのかもしれませんね。

 

働かなかったらどうなるのか?

ここで少し視点を変えてみましょう。

働くことが当たり前の世の中において、働かなかったらどうなるのでしょうか?

働かなくても大金が手に入ったらなぁ…って思ったことはありませんか?

ここで一つ、例を取り上げてみます。

 

ナウル共和国

ナウル共和国をご存知でしょうか?オーストラリア付近にある、太平洋に浮かぶ小さな島国です。

この国は、リン鉱石という資源に恵まれ、30年ほど前まで「地上の楽園」と呼ばれるほど豊かな国でした。豊富な資源に恵まれ、国が莫大な収益を上げたことで、国民全体に不労所得が手に入り、しかも生活費の他、税金、学校や病院施設など、公共サービスのほとんどがタダで、働く必要がなく、毎日が日曜日というような、「世界一贅沢な国」と言われていたそうです。

一見、とても羨ましく思えますが、実は1990年代後半から資源が枯渇してしまい、それによる莫大な収益は徐々になくなってしまいました。あまりに贅沢な日々が30年続いたことで、ナウル国民は働く意欲も失っており、苦労して働いて稼ごうとはせず、いかに楽して稼ごうかと、黒いお金やテロリストの片棒をかつぐこともあったそうです。

詳しく知りたい方は、こちらをご覧ください(^^)
(参照:https://business.nikkei.com/atcl/opinion/16/122700036/032000008/

同じようなことは、「アラブの大富豪」の代名詞である中東の原油産油国にも言えるかもしれません。ガソリンや燃料、石油精製品などが社会の重要インフラになっている時代は良いですが、もし、それに代わる代替エネルギーが開発されたら、数年も経たずにナウルのように貧民国になってしまうかもしれません。

国の例を出しましたが、私達一般市民でも、普通に考えたら、単純に働かなければ収入を得ることはできず、収入がないと生活をすることはできません。仮に、ナウル共和国のようにたまたま運良く働かなくても贅沢な生活ができてしまったとしても、その前提が立ち行かなくなった瞬間、あっという間に崩壊が始まることでしょう。

一般的に、働かなければ収入はないので生活はできませんが、ナウルの人々のように、働かずにただ収入があるだけでは、なにか不測の事態があった時には結局生活ができないということになり、やはり、人間は何らかの「働く意味と目的」を必要としている、ということになります。

 

労働する事はあたり前なのか?

上記のナウル共和国は極端な例かもしれませんが、どうやら人は、「働かない=何もしない」ということだけでは、実は幸せにはなれないのかもしれません。だからと言って、ただ働けばいいか?といえば、そうでもありません。

おそらく人は、自分が何らかの形で、「周囲や社会の役に立っている」「存在が認められている」と思えない限り、心底幸せを感じられない生き物なのではないでしょうか。しかしながら、現代社会の多くの人々の現状では、「生活する為に仕方なく仕事をしている」とも言えます。生活するにも、何をするにも「お金」がかかる。私たちが生まれた時から、それはあまりにも当然すぎて、疑問にすら思わない人が多いのではないかと思います。

では、果たして本当に働かなければいけないのでしょうか?

働くことは、日本語的には、本来「傍を楽にする」ということが語源と言われていますが、一般に我々が働くということは、「労働」という認識ではないでしょうか?

 

働く労働?

「働く」ということを語る上で、「労働」について触れなければなりません。

働く人のことを、「労働者」と呼称しますが、労働者とは、会社や組織等に勤めて働く人のことを言います。時代が変わってきたとは言え、実際は何かしらの会社や組織に勤めている方の方が圧倒的に多いと思います。つまり、多くの人が「労働者」というわけです。

そんな会社勤めしている中で、自分のやりたいことをやれたり、自由に働けている方はどれだけいるでしょうか?

一応、道楽舎のメンバー全員、以前は会社勤めをしていました。私MAXは、個人事業主になった今でも時々感じることではありますが、会社に勤めて働くということは、「会社から求められている、やらなきゃいけないことをやる」ということではないでしょうか。平たく言えば、「(自分の意思とは関係なく)やらなきゃに追われる」という感じです。

もちろん、やりたい仕事をやっていても、やらなきゃいけないことは当然あるものです。しかし、お金を稼ぐためだけに就労し、やらなきゃに追われることは、少なくとも私にとっては苦しみでしかなく、長続きはしませんでした…(^^;

今も、やらなきゃいけないことはあるものの、やりたいことができているので、まだなんとかバランスが取れていますが、毎日通勤電車に揺られ、会社の言う通りに従い、理不尽に下げたくもない頭を下げるというのは、私にはできません…(^^)

この「やらなきゃに追われる割合」が多い場合は労働に偏り、自分のやりたいことを全うするのに必要な「やらなきゃ」は、むしろ努力感無しで、楽しんで出来たりするのではないでしょうか。

ちなみに、会社ではこの「やらなきゃに追われる」ということに対して、「追われるんじゃない、追うんだ!」と、体育会系な思考の修正をしてきます(笑)。特に営業をやってる方は、どこかで似たようなことを言われたことがあるのではないでしょうか?確かに、その通りかもしれませんが、色々見えてきた今からすると、それも既定路線の枠にはめる言葉でもあるな~と感じます(^^;

「俺達もこうしてきた。だから、お前達もこうしろ!」というのは、もう、どうなんでしょうね…(^^;

要するに「労働者」というのは、「自分の意思に関係なく、自分がやりたくもないことを無理やりやらされている状態」と言い換えることができるのではないでしょうか? なので、自分の意思によって納得できる職業に就いている人は、労働者ではなく「天職(天命)」に生きている人だと言えます。

ドイツ語で職業を意味する「ベルーフ」という言葉は「神の任命」という意味だそうです。しかしながら、我々一般人がイメージする職業は「レイバー(強制労働)」に近いのではないかと思います。

なので、「レイバー(強制労働)」ではなく、自分のやっていることが、自分自身や周りにとっても、公(おおやけ)の社会にとっても、「何らかのお役に立っている」ということを実感として持っている場合は、それはその人にとっての「ベルーフ(天職)」ということになります。

この「強制労働」と「天職」をごっちゃにして考えていることが、働くことや職業に対する数多の誤解を生んでいると思われます。もちろん誰だって、囚人のような「強制労働」なんてしたくはないですからね。にもかかわらず、私達は幼い頃から、なぜか罪を犯した囚人のような「強制労働」を「働くこと」として、さも当たり前のように教育され、人生のある時期から文字通り「強制的」に職業に就かされるのです。そして、その仕組自体を維持するために、いつの間にか私達は、まるで自ら思考をすることを放棄した「ロボット」のように、その仕組に従って生きるのが「当たり前」「既定路線(常識)」だとして、刷り込まれている(洗脳)ことすら忘れて人生を生きているのです。

しかし、いつの時代も、そのような「当たり前」に違和感や疑問を抱く連中がいるものです(笑)

「ちょっとまって、そもそも、それって本当に当然なの? なんかおかしくないか?」

「だいたい、今の仕組みや制度って、誰得なわけ? どう考えても『俺達』のためじゃないよね?」

・・・まあ、あまり言い過ぎると、この仕組を作った人達に都合が悪いので(笑)、細かいことは割愛しますが、とにかく、よく考えたら「おかしなこと」があまりにも多すぎるのです。

だから我々は、そんな「既定路線」を『いち抜けた~!』して、「新人生」を生きようと思ったし、人生のある時点で、幸いにも「土壇場JCT(人生の岐路)に差し掛かる出来事がありました。その時に、あらためて自分の人生を見つめ直し、世の中の常識に執われず、もっと自分の心の声に素直に従って自由に生きてみようと本気で思いました。それは決して、言葉で言うほど生易しいものではありませんでしたが、様々な過程を経て、現在進行系でそのように生きようとしているのが、我々【道楽舎】です。

そこ、土壇場JCTじゃない?どっちに進む!?

 

前半のまとめ

「働く」という事に関して、【道楽舎】としての視点で述べてまいりました。「学生を終えたら就職して働く」ということが、さも当たり前になっていることへの違和感や、逆に、ナウル共和国という「働かなくても世界一贅沢な国」の末路も紹介しました。ただ、働くのが嫌で、労働そのものを否定したいわけではなく、むしろ働かないことだけでは必ずしも幸せになれない、ということをナウル共和国の例から感じた上で、そもそも論として、私達が常識として捉えている「働く」ということに関して、一つの問題提起をしてみました。

働かないでいても幸せにはなれない。かといって、働かなきゃいけないから働いても、本当の意味で幸せは得られない。…この二律背反的な矛盾は、私達のような「労働者として小さい頃から教育を受けてきた一般市民」にとって、「人生のどこかで必ず突き当たる課題」ではないかと思います。

前編となる今回は、「働かなきゃいけない」という観念について言及してきました。中編の次回は、もう一段掘り下げて、労働社会の闇にもっと踏み込んでいくこととなります…。「当たり前になってるのはわかったから、じゃあ、どうすりゃいいの?」という声もあると思います。後編となる三作目で、【道楽舎】として目指す「働き方」を提唱していきますので、楽しみにしてくださいね!

 
 
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