「道楽的分析」について、三部作としてお送りしてきましたが、今回が最後となります。
第1弾は「反省せずに分析しよう」というテーマでお送りしました。
第2弾は「時間の流れを逆転させてみる」というテーマでお送りしました。
「反省」には落とし穴があるということ。時間の流れを逆転させてみることで、過去に起こったことや、今起こったことは、実は未来を原因にして起こった結果であると捉えることができ、自分の人生を物語化して考える、ということについて述べてまいりました。
MAX個人のコラム「大事なのは反省より分析」を「起」とするならば、「反省せずに分析しよう」は「承」、「時間の流れを逆転させてみる」は「転」、そして、今回が「結」となるような内容になるかと思います。
【"せい"を"おかげ"にするには】
過去に『原因』があって、今という『結果』がある。という考えは、今がうまくいっているならいいんですが、そうでない時、現在がうまくいっていないと感じる時に、過去に『原因』を求めると、どんなに悩んでもその事自体はもう取り返しはつかない事なので、その失敗(と見えしもの)に対して、深く後悔をしたり、「あの出来事さえなければ…」という自責の念に駆られ、その出来事の"せい"にしたりしてしまいます。
過ぎてしまって変えられない過去の出来事に原因を求めれば、人は苦しむだけです。
私は道楽的な視点を持って生きるようになってから、世間でよく言われる「反省」というものは、【人を過去に閉じ込めて抜けられない状態にする】ような、何らかの【思惑】を感じるようになりました。
いや、純粋な反省というのはそうではないのかもしれません。私はこれでも、ある程度仏教的な教えも学んできていますが、本家本元の仏陀の言う「反省」と、カルト宗教や世間で言う「反省しなさい」という言葉は、全く異質なものだと感じます。
本当の反省は人を【解放】に向かわせますが、我々の行なっている反省は、過去に【閉じ込める】方向に人々をミスリードしているように思われます。
それは、長い歴史の中で、権力者達が民衆を都合よく統制するために、人々を過去に閉じ込めてセルフイメージを低下させ、罪の意識を背負わせて罪悪感を刷り込み、罰を与え支配し易くする、という「裏」を感じるのです。
道楽舎では常々「"せい"を"おかげ"に」と発信していますが、真の反省(分析)をする為には、第2弾で述べたように、「時間の流れを逆転させて考えること」が必要です。
どういう未来かはわからないけど、既に未来に原因があって、過去にあったことや現在というのは、その結果として現れている。不満を抱こうが嘆こうが、起こった過去や現実は変えようがない。"せい"にしたくなるようなことであっても、それは、未来を確定させたからこそ、結果として起こったことです。それを受け入れて向き合わなければ、望む未来にはなりません。
本当の意味で「"せい"を"おかげ"に」変えられるのは、必ずしも「今」とは限りません。しかし、人生という物語の中で、"せい"という負の感情は、いずれ"おかげ"に変えられる…と捉えることで、起こる(起こった)出来事を前向きに受け止めることができます。
それが、「道中を楽しむ」ということです。
起こったこと全てを受け入れ、道中を楽しめば、例え失敗したとしても、それを嘆くのではなく、それは必要なイベントとして起こったことだと受け入れられるようになります。
もし、誰かを傷つけたり、迷惑をかけるようなものであれば、謝ることは必要です。しかし、失敗と見えるものは、誤りではなく、必要なこととして起こったことなので、失敗に見える成功なのです。
【謝ることはあっても、誤ることはない】
道楽において、謝ることはあっても、誤ることはありません。なぜなら、間違ったとしても、間違えることが正解だったからです。
その前提のもと、反省ではなく分析をしてみると、思いもよらないような発見をすることになると思います。
三部作に渡って、「道楽的分析」というものはどういうものかの説明や、心構えのような内容でお送りいたしました。道楽舎のメンバーは、口だけにならないように、自分たちを実験台にして、人生をこのような感覚で観ているます(笑)。
いずれ、実際の具体例などを配信できたらと思いますが、自己イメージを低下させ、過去の檻に閉じ込める「反省」ではなく、時間を逆転させて、失敗も不幸も受け入れられれば、"せい"を"おかげ"に変えることができます。その時の感動やカタルシスは、計り知れません。
ぜひ、試しに「道楽的分析」で自分と向き合ってみてください。何か感じたことがあったら、コメントをお待ちしています!!
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